jupes jupesの日記

Lanai Fukudaのくだらない日々

3月になりました!

以下、昨日書いたものでした・・・

 

今日から3月です!

 

季節は可愛いくらいに素直で従順で、月が変わった瞬間に春になりました。

 

昨日よりも10度も高く暖かくなりました!

 

今日は1年に一度の恒例の青色申告会での確定申告でした。

 

あまり大した申告もないのですが、この恒例の行事が終わるまで、どうも落ち着きません。

 

この作業も長年行っているとようやく、帳尻合わせのこつが掴めて参りました。

 

本年も税理士さんの言葉のはしはしに、同情と侮蔑のこもったものがよく分かりました。

 

ふんとばかりに軽くあしらわれながら、30分ほどで終わってしまいました。

 

しかし、数字に弱い私にはとうてい税理士さんのやっている作業は一生かかってもできそうにありません。

 

この恒例行事が終わるまでは、何か引っかかり心が重たくことを進められません。

 

今年も無事に終わってほっと致しました。

 

税理士さんに感謝

 

 

帰りに一足早く咲いている満開の桜の木を眺めながら戻って参りました。

 

さくら

 

 

 

今日も、入浴中の私をすりガラスに顔を押し付けて、根気強く待っていたジェルちゃんが、すかさず、出て来た私の膝に乗りました。

 

その横で目には見えない敵と戦い、部屋中を駆け回っているエンちゃんがおりました。

 

つかの間の平和なひとときが訪れました・・・

動物さんはソウル・メイト

 

先日、あるクライアントさまとお話をしている時に、

 

天界より

 

「人に救ってもらうとしてはいけない」

 

「心の隙間をパートナーに埋めてもらおうと思ってもそれは無理である」

 

「自分の心は誰も分かってはもらえない」

 

「生きている人間はすべて不完全である」

 

「他者に救いを求めても、結果は落胆するだけである」

 

「どんなに相手を変えても、求める人は現れない」

 

 

それよりも、他者に求めることは止めて、

 

「自分の内側を見つめなさい」

 

「自分の内側に求めるものがある」

 

「自分の内側に、完璧なるものが存在する」

 

「内なる自分が実は魂の片割れソウル・メイトなのである」

 

「自分の中心に真理がある」

 

というメッセージが参りました。

 

 

生きている人間は常に揺れ動き、そして邪悪な魂も存在します。

 

人間を完全に信じて頼り切ってはいけない、と天界は申しておりました。

 

でも、動物さんの魂は純粋無垢で邪魔をするものがありません。

 

動物さんは、人間を裏切ることはいっさい致しません。

 

そのクライアントさまにも、今後は人に救いを求めたり、愛を求めるのではなく、内なる自分を信じて、地上の動物さんに手を差し伸べ、その代わりに動物さんから頂く無償の愛を求めてくださいとお伝え致しました。

 

そうするとおのずと周りに、賛同し協力してくださる人間のソウル・ファミリー達が集まってきて、お互いに助け合いより楽しく生きられます、と

 

天界のメッセージをお伝え致しました。

 

うさぎ先生ありがとう



隠れキャットニャン 続き

 

先日、いつものように団地のネコちゃん達に餌やりをしようとしていたら、子どもを乗せる大きないすのついた自転車に乗って近づいてきた女性がいました。

 

小さい紙のチラシを手渡され、

 

「何かお困りのことがあったらご相談に来てください」

 

と言われました。

 

そのチラシには、

 

「困りごとなんでも無料でご相談をお受けします」

 

・・・

 

「講演会のご案内も行っております・・・」

 

のような内容が書いてありました。

 

はは~ん

 

よくある常とう手段。

 

新興宗教の誘いのひとつですね。

 

ちらしには、まったくどこの誰とも団体名も書いておらず、ただなんでもお聞きします、とあります。

 

上手な誘いのメソッドですね。

 

ずっと以前の私であったらつい誘いに乗っていたかも知れません。

 

特に学生時代や20代の後半あたりは、私も言い知れぬ不安にさいなまれて、どうしようもなく、いろんな占い、新興宗教の後援会、そしてスピリチュアルワークショップに参加しておりました。

 

キリスト教では救われないと感じていた為に、あるとあらゆるものに救いを求めておりました。

 

その時はこれという明確な理由もなく、計り知れない巨大な、そして空虚な不安が押し寄せてくる感覚があり、「ただ死にたい」という欲求にむしばまれていました。

 

毎日、心の中で「死にたい死にたい」とつぶやき、でもキリスト教の教えでは自殺すると地獄に落とされるというものが、幼少期からインプットされており、それだけはキリスト教が救ってくれた「救済」かも知れません。

 

しかし、死の誘惑はとても魅惑的で、死後の世界の美しいヴィジョンが私を「死にたい病」にいざなうのでした。

 

学生の3年生の春休みに、クラスメートと一緒にアメリカ旅行をした際にも、家族に保険を残し、ナイアガラの滝で足を滑らせて落ちて事故死したと見せかけるのは、どうか、とかクラスメートには内緒で考えていたものです。

 

他にもどうやったら人に迷惑を掛けずに死ねるか、一番楽な死に方はなにか、死んだ際になにもかも抹消できる方法はないか、一番きれいに死ぬには、と延々と考えているうちに、煮詰まってくると、自分でもおかしく笑えてきてしまい、いつも最後は自虐的にふふふと笑っておしまい、となるのでした。

 

死にたい病は今でもずっとあるのですが、動物さんにかかわるとこの子達を置いてはまだ無理かな、と思えて参ります。

 

先程、ちょうどうちのネコちゃんをもらっていかれた方からお電話があり、

 

「3年間も続いていた死にたい願望が、ネコちゃんをお迎えして一瞬でスッと消えました。すごいです」

 

と告白していただきました。

 

ちょうどこの文章とリンクしていた感じで驚きました。

 

私はおかげさまで、天界の仕事をさせて頂いてから、死後の世界と死者の魂と対話ができるようになり、向こう側の世界のことをよく教えて頂いております。

 

詳しく書きだすと、大変なことになりますので、ストップしますが、簡単に言うと、生きていた時の最後の状態が、そのままスライド式に、向こうの世界に移ります・・・

 

ということです。

 

魂レベルによって、まったく状態も動きも変わって参ります。

 

肉体がない分、重い方は不自由にもなるし、軽やかな方は軽やかになります。

 

しかし、ネコちゃんを始め、動物さん達の魂は死後は瞬間に光に戻り、天使の姿になります。

 

ただ、飼い主さんがあまりにも嘆き悲しんでいると、しばらくすると降りてきて、寄り添ってくれます。

 

そして、飼い主さんが他のペットさんを飼うように心にささやき掛けます。

 

そして飼い主さんが次のペットさんを飼うことになると、次の子の中に3分の1くらい、入り飼い主さんを全身全霊でお守りします。

 

宗教なんかに入るよりも動物さんを迎え入れる方がずっと健康的で良いですね。

 

また地上の不幸な動物さんを一匹でも減らすことになりますから、ぜひ可哀そうなネコちゃんやワンちゃん達を迎え入れて頂きたいと願います。

 

楽ちゃんは多くの人々を救ってくださった偉大なるゴッド・マザーでした。

 

隠れキャトニャン

ふと思ったのですが、キリスト教にかかわらず、すべての宗教はかなりスピリチュアルなところが原点、ということです。

 

現在の正統派のキリスト教の方々は、スピリチュアルな側面を否定していらっしゃいますが、原点としてはキリスト教はかなりスピリチュアルなものだと感じます。

 

キリスト教でも、キリストが起こした奇跡の数々が、売り、です。

 

新約聖書の中でも、キリストが湖面を歩いた、とかお説教を聞きにきていた人々がお腹が空いたら魚とパンが降ってきた、とか、結婚式の水がめの水がワインに変わった、とか、また病気の人がキリストの手によって治ってしまった、とか、悪魔祓いをしたとか、預言をしたとか、天使がたくさん舞い降りてきたとか、十字架の上で死んだはずのキリストがよみがえった、キリストのお弟子さんも同じことをやった、とか・・・

 

不可思議な現象の数々が、人々を恐れおののきさせて、また惹きつけて従わせた、ことが信仰に結びつかせています。

 

キリスト教の聖人の方々も、同じように、天使を見たり、聖母マリアを見るような幻視体験をしたり、キリストが十字架につけられていた時にくぎ打ちをされた両手両足の穴が同じ個所に開いてくるという現象(スティグマ、聖痕)が起きたり、手をかざすと、病人が治ったり・・・と一般の人から見ると奇妙で魔術的なことに思えることをキリスト教の中では数多く重んじられています。

 

それでローマ帝国でもキリスト教邪教であり、魔術的なものとして禁止したり、魔女狩りが発生したようです。

 

鎖国の時代の日本政府も海外からやってくる宣教師に対して、まやかしやあやかしのようなものを行う怪しいものたち、ということで恐れ禁止したというのも、良く分かります。

 

禁止されながらも、日本人はかなり影響を受けていたようですね。

 

現在の日本の厳しい一夫一婦制の結婚制度もそのひとつのようです。

 

禁止されながらも迫害されながらも、じわじわと世界中に広がって文化文明に強い影響を与えているのがすごい、と思います。

 

すべての始まりが、たった一人の人、キリスト、です。

 

天界の一番トップのマスター

 

学校でいうと学校長、校長でしょうか。

 

すべての原点はスピリチュアルです。

 

だひとつの宗教にどっぷりとはまり狂信的にすべてを信じ込むのは、違うと感じます。

 

キリストもご自分の教えが後世でかなりゆがんで伝わり、たくさんの派閥を生んでしまったことを憂いているようです。

 

宗教というものに囚われず、柔軟性を持って、キリストを先生として、一対一で教えて頂くのが良いと思います。

 

先生のお言葉をいろんな人がいろんな解釈で持論を混ぜながら教えられると、混乱していきます。

 

 

 

魔法の先生

宣教師エンちゃん

ちなみにネコもスピリチュアルです。

 

実はネコ好きなのに、隠している人を

 

「隠れキャトニャン」と密かに呼びます。

 

 

ネコ姉妹の個性

わがジェルちゃんには、少々困ったところがあります。

 

超スーパー甘えっこで片ときも私から離れたくないようで、部屋の中ではどこに行ってもくっついてくるし、いつまでも待っています。

 

それはそれは愛くるしいことで可愛いのですが。。。

 

 

いわゆる人間でいうところの承認欲求の塊なのです。

 

毎日の行動で、フードやおやつを食べて満足したかと思うと、ささっとどこか、たとえば階段の中段とか、ドアの陰などに隠れ、(昨晩は大きなゴミ袋の中に入り込んで隠れて鳴いていました)

 

そして突如

 

「うわ~ん!」

 

とだだをこねている2歳児の子どものような声で鳴くのです。

 

それが重低音で、アパート中響き渡るほどのよく聞こえるのです。

 

他の人が聞いたら、人間の子どもが泣いていると思うでしょう。

 

毎回、「何?どうしたの?」と呼び掛けても近づいていくまで止めません。

 

仕方なく近づいていくとごろんと横になって、大きく伸びをしてお腹を触って、と要求して参ります。

 

お腹をさすってあげるしばらくは満足した顔になります。

 

そして何事もなかったかのように普通に戻るのです。

 

そして私がまたやっていたことの続きをしていると、今度は別の場所に隠れて、また同じようにお腹の底から発するような、詩吟のような「ううううお~ん」と鳴きだします。

 

これを寝るまで、何度も声色を変え、隠れる場所を変え5,6回繰り返します。

 

これは可愛いというより、うざい、面倒くさい・・・

 

毎晩、かなりのストレスで「もう止めなさい!」と最後ははがいじめにして抱きかかえると「ふぎゃ!」っと嬉しそうな悲鳴を上げ終わりになります。

 

ジェルちゃんのこのルーティーンなのか、人の愛情を試すような「お試し行動」はいつまで続くのやら・・・

 

 

やはり足を折られて捨てられた時のトラウマがあるのでしょう・・・可哀そうに

一方でエンちゃんの方は、以前はかなりのやんちゃおてんば娘であったのですが、最近はかなり大人になって参りました。

 

ますます賢く、冷蔵庫の上に乗っても降りなさい、止めなさい、というとすぐにいうことを聞き、お座りとお手はびしっと、まるでシェパードの警察犬のようにきめます。

 

声も小さく「わんわんくーんくーん」と子犬のような声を出しますが、周りにはあまり聞こえません。

 

そして、私の膝を独占しているジェルちゃんを横目にして、遠くからこちらを眺めています。

 

でも、もしかしたら構ってもらえないストレスをためているのか、時々狂ったように毛づくろいをしています。

 

甘えん坊で我がままで独占欲の強い次女と賢く忍耐強い長女という感じがします。

 

これはまさに個性のまったく違う2人の姉妹の子育てをしている感覚になります。

 

両方に平等に惜しみなく愛情を注がないと、と思います。

 

それでもネコは天使です。

わがままジェルちゃん

Angel

それでも仲良し

 

ネコ とは

「神」

 

という字から

 

「十」 

 

十字架を取りはらって

 

「1」

 

十字架につけられたキリストを槍で突き刺してとどめを刺したという槍を取りはらうと

 

「ネコ」

 

になる

 

 

つまり、

 

ネコとは

 

十字架からも自由になって、痛みと苦しみから解放されたキリストかな?!

 

ネコはキリスト

 

だったらネコを大事にしなくては!

 

ネコの中にキリストが存在するのですね!

 

夜中にふと思いました

キリスト教ね・・

キリスト教で、自分が信仰心の厚い信者になれなかったのは、天界の采配だったに違いない、と今では思います。

 

人は人を模範や目標にしがちです。

 

身近にいる、キリスト教にかかわる人たちの中で、こういう人を目標に、憧れ、こうなりたい、この人が信じているものなら従いたい、と思える人がいなかったのです。

 

まず母はとても敬けんなクリスチャンで善良な人でしたが、あまりにも強すぎる信仰心であったために、家庭よりも教会を重んじ結構家族が振り回され幼少期は、辛い思いをしたことが度々ありました。

 

幼少期のトラウマがあり、ずっとキリスト教を避け続けていたのですが、たまたま受験科目が少なく、そこしか受け入れてもらえなかった大学に入ると、そこはキリスト教の学校だったのでした。

 

 

その通っていた学校でも、尊敬される神学の偉い教授さまが、授業では「神は愛です。罪を赦します」と、重々しく威厳のある表情でおっしゃりながら、外に出た瞬間に修羅か鬼のような顔になり、目の前でタクシーが乗車拒否をして通り過ぎたものを、

 

「ちくしょー」

 

とこぶしを振り上げ、怒鳴って舌打ちをしているところを目撃してしまい、やはり偉い先生も皆、同じ、とため息をついておりました。

 

 

その後、縁があって勤めていたミッションスクールではミサの時間があり、神父さまシスター達、そして生徒達と一緒に、神妙な表情で、アーメンと十字を切っている教師たちが、教員室に集合すると、陰湿な教員いじめが横行し、かげでは教員同士の不倫は当たり前、ある体育の男性教師は、同僚の女性教師と3又かけて付き合い、そして女性にDVを繰り返していたと聞きました。

 

男性教師は、女子生徒との付き合いを禁止されていたにもかかわらず、なぜか上司達の奥さんは卒業生ばかり・・・

 

教えに来てくださる神父さまはアルコール依存症の噂あり、シスター達は女性社会のストレスで、生徒いじめが横行し・・・

 

またミーティングの後の打ち上げでは男性教師は受け持っている女子生徒の体の特徴を延々と嬉しそうに酒のつまみにするとか、その後は掛け麻雀三昧、更にまた打ち上げの二日酔いで、校長不在の時は、校長室で寝ている主任教師もいたのでした。

 

そして、いじめの女総番長かやくざの女親分のような校長が、朝礼などで生徒の前で、

 

「神は慈愛です。共に助け合い、いたわりあい仲良くしましょう」

 

聖母マリアのように優しい表情で両手をドラマティックに広げて、尊敬のまなざしで見つめている生徒達を包み込むようにおっしゃるのです。

 

あまりにも書きだすときりがなく、悪口の暴露本が書けてしまいますから止めます。

 

しかし、その偽善極まりない、人間の両局面の中にいて、私自身が混乱し、すべてが許せなくなり怒りに満ちあふれ、うつ症状になってしまっておりました。

 

うまく立ち振る舞っている上司など、校長に気に入れられ、どんどん出世して、その後、校長亡きあとは、自分が校長にまんまと就任したようです。

 

今の自分から観ると、その人達は、その世界で必死にもがき生きているのだから仕方がない、頑張って生き抜いて欲しい、と心から願います。

 

しかし、言葉を額面通りに受け止めていた当時の自分は、その人間達があまりにも醜悪で虚偽に満ちあふれていて、キリスト教にかかわる日本人は、皆ひっくるめて嫌悪感しか抱かないようになっておりました。

 

(ふと思うのですが、あの博愛で慈愛に満ちていらっしゃるマザー・テレサさまも、もし生きていらして、上司であったら、もしかしたら、実はものすごく意地が悪く厳しく、自分など


叩きのめされてしまっていたかも知れません。マザーのお顔は威厳に満ちていらっしゃるのですが、最近、どうも魔女にしか見えなくなっております。そのような強さがないと個性豊かな人たちを動かすことはできなかったのでしょう)

 

その後、そのミッションスクールを辞めてから、外国に仕事でいくようになると、やはりキリスト教大国のアメリカでは、どうしても、現地の方々と共に、教会に行かざるを得なくなりました。

 

しかし、現地の教会は、とってもオープンで明るくフレンドリーで、礼拝も歌と踊りと笑いに満ちあふれており、日本の教会の排他的で、じめっとした陰湿な暗さは微塵もありませんでした。

 

アメリカは教会がご近所との社交の場所であったり、助け合いの場所になっているようでした。

 

また最後に赴いたニュージーランドでは、かなり特殊な教会があり、

「スピリチュアリスト・チャーチ」 Spiritualist Church と呼ばれており、霊的なものを扱う、万人を受け入れ、癒す教会として、とても人気があった教会に衝撃的に出会い、受け入れて頂き、そして人生の方向性が徐々に変わってきたのでした。

 

最終的に、私はプロテスタントの信者を落伍致しました。

 

そして宗教は一切、止めることにしたのです。

 

遠藤大先生もきっと同じ思いであったのでは、と思いますが、宗教の中に神を閉じ込めてはいけない、神とは宗教などという人間どもが作った器に入れてはいけない、もっと大きな無限に広がるものである。

 

私にとって「神」とは「無」「無限の光」「何も無い光の源」

 

と感じます。

 

見たくても、見ることはできない、

 

求めても答えをくださらない

 

けれども、大きな無限に広がる光の中に包みこんで受け入れてくださる、それが愛かな

 

そんな気が致しております。

 

LOVE