遠藤周作大先生の「深い河」を拝読させて頂きました。
読むものをしっかりと離さず引き込み魅了され、3日で読破してしまいました。
しかし、大先生は書き上げるのに3年間かかったというものを3日で読み切ってしまうのは、まるで冒涜しているようで申し訳なく、今後は、再度内容をじっくりと反芻するように吟味させて頂こうと思います。
またご本の参考書のようなものも、いろいろと拝読させて頂こうと思っております。
わたしごときものが、大先生の大作をそんな簡単に述べては罰が当たりますが、
僭越ながら、読書後の感想としましては、
「これは遠藤周作大先生の人生そのものではないかな」
と思われたことです。
すべての登場人物の中に、遠藤先生の人生が散りばめられており、自己投影して昇華していらっしゃる感じが致しました。
その中には、善人もいれば悪人もおり、天使とルシファーの両面があり、大先生だけではなく、すべての人間の中に混在する、ということも表しているのかも知れません。
そして、遠藤先生の人生の大きなテーマとして、「神とはなんぞや?」ということがあると思います。
それは万人のテーマでもあります。
日本の普通の人たちはそれを口にするのさえ、気恥ずかしくおっくうであり、心にふたをして閉じ込めてしまい、表面的にはご利益信仰で神社仏閣を訪れるくらいです。
それにもかかわらず、新興宗教に没頭し身を滅ぼしてしまう人が日本にも数多く潜在しています。
遠藤先生は、「神」「宗教」というテーマをほじくり返し、これでもか、これでもか、ともがき苦しみながら、自問自答し、また他者に答えを求めてカトリックの信者になりフランスのリオンにまで留学までし、学術的なものの中に、神というものの答えを求めようとされたようです。
しかし、どんなに求めても、答えが出ずに、かえって苦しまれたように思えます。
西洋の神学では、小説の中にもあったように、神というものは、論理的に崇高でクールで遠い存在のように思えます。
それでも信者になって、教会に通い、神父さまの言うとおりの行いをし、聖書を読み続けて祈り続けていたら、天国が門を開いてくださる、そんな感じに思えます。
それを神学者さん達が、歴史上ではこうであるとか、あーだこーだととにかくややこしく難しく図書館ができたり大学ができるくらいの学問にまで発展させて、でもそのおかげで、芸術的な文化も発展して西洋美術や建築の中に、キリスト教が昇華して後世に残るものとして、花開いていますね。
遠藤大先生は、その完成された美しく統一の取れたものの中に神さまというものを見出せずにもがき苦しみ、文学の中でも自問自答していらっしゃる感じがします。
ずっと以前に読ませて頂いた「沈黙」は映画にもなりましたが、まだその中では「神さま」とはなんぞや?と日本の黒歴史でもある隠れキリシタンを通して、なんでそれまでにして信仰を保ち続けられたのか?と研究と調査をつづけながら、遠藤先生の中にあった疑問を晴らそうとしていらした気がします。
しかし、「沈黙」の中では、その言葉通り、神様はお答えくださらず、最後まで苦闘されていて、読んでいるこちらまで、苦しくなっておりました。
しかし、この「深い河」では、遠藤先生が、「もうこれ以上書くことはない」とおっしゃった通り、この中に先生が見出したすべての答えが詰まっている感じがしました。
登場人物の中の、インドのヒンズー教の教会に拾われたという、カトリック神父を落伍した「大津」という人が、遠藤先生の見出した答えをあちらこちらでつぶやいています。
「神という言葉が嫌なら玉ねぎと呼んでいい」「玉ねぎはあちらこちらにいるんです」
「愛という言葉が嫌なら命のぬくもりと言っていい」
と言わせています。
そして、当時(90年代?)のインドはまだカースト制度が根強く、それにも属せないアウト・カーストと呼ばれる、極貧民がいて、街のあちらこちらで産まれてはのたれ死んでいく、という地獄絵図のような光景が見られたようです。
それらも含めて、すべてのインドの人たちは、一生に一度でもガンジス川の聖なる水で沐浴すれば、生まれ変わった時により良い人生になる、とか、死んだ後で遺体を川に流してもらえたら、もう輪廻転生から卒業して、天国に帰れる、と信じているとありました。
(かつて、私も人生につまづいた時に、インドのマザーテレサのお作りになった活動に参加しようと浅はかな計画を立てたことがあったのですが、シスターに断られ、その後、とある銀行の待合室で「ナショナルジオグラフィック」のインド特集ページをふと目にし、ガンジス川で沐浴をしている全裸の男性のドアップ写真があり、その背後で死体が流されていたり、牛が浮かんでいるのを見て、「行かなくて良かった」と心から安堵したものでした・・・日本人の衛生概念ではとても受け入れられるものではありません)
西洋の街と違って当時のインドの街は、貧富の差など天国と地獄のようであり、すべてが混とんとして渦巻いていたようです。
そんな中でガンジス川だけが、鉛色の水で悠々と流れ、そのすべてを受け入れてくれる、究極、神とはその川のようだ、とおっしゃっている気が致しました。
善悪も美醜も、貧富も関係なく受け入れてくださる、そしてただ静かに流れる・・・
ただ、私がそのガンジス川に求める人々に対して感じたことは、人生の中で一度でも川で沐浴すれば、来世ではより良い人生と手に入れるとか、輪廻転生を卒業できる、というのは、究極の欲、煩悩ではないか、と思ったことです。
よく人は、これさえすれば幸せになる、これさえ手に入れれば幸せになる・・・
というように、
「こうしたら」「ああしたら」「これさえあれば」「こうなったら」
・・・
「幸せになる」「良くなる」
といいように単純なほど条件付けをしたがる気がします。(かつての私もそうでした)
当方にも、
「天界学さえ修了すれば、死後は天界に行けるのですよね?」
「天界の講座を受けさえすれば、天界のセラピストになれるのですよね?」
「天界学を修了したら天界のレベルに達せますよね?」
と聞かれることが度々あります。
その度に
「天界学はもちろん、天界のゴールへの最高最善のスタートであり、最短近道ではありますが、これが出発点であり、その後はその人次第なのです・・・」
としかお答えしようがないのです。
「これさえすれば、こうなるはず」
と条件付けするのは、古来からの既成の宗教にありがちなものです。
たとえば、「阿弥陀仏と念仏を唱えれば極楽浄土に入れる(浄土宗?)」
とか
「南無妙法蓮華経と唱えると、現世でこの身このままで即身成仏できる(日蓮宗?)」
とか、
古来から、人は苦しみばかりの人生で必死に救いを求めてきたのだと思います。
それは修羅のこの世があまりにも辛く、何かに救いを求めたいというのはすべての人の当然のものだと思います。
人間は救いのシンボルを求めるのですね。
救いの器が、西洋では教会であり、アジアでは寺院であり、アイコンが、十字架であったり、キリスト像、聖母マリア像、であり、インドでも神々の像、女神像、そしてガンジス川なのですね。
「深い河」の中で、神を否定しているルシファーのような美津子という女性は、川よりも自然の中に深い慈愛のようなものを見つけています。
また沼田という童話作家も、野鳥保護区や放した九官鳥の中に解放を見出しています。
遠藤先生がおっしゃりたかったことは、
すべてのものの中に神は存在する、特別な宗教的なものの中だけに神がいるのではない、
神を信じる者だけが救われるのではない、
もうすでにあなたは救われているのだ、
ということなのかも知れません。
神とは、
欲しい
求め
すがって泣きわめいて助けてくれ
くれぬなら奪い取ろうとする人間達
をたたただ静かに見守り無限に広がるもので包んでくださっている
それが神の愛
とおっしゃっている気がします。
でも、それで良いのです。
求めて求めて、苦しんで長い旅をして・・・それが生きるというものです。
神はそれを見守り受け入れ許してくださっています。。。
地球に人間としている限り、それで良いのです。
(なんでも許してくださるからと言ってなんでもしていいとはおっしゃってはいないでしょうね。人を傷つけたり迷惑をかけたり、はいけない気がします)
たぶん・・・
人間にくらべて
対極にあるのが
地球の自然や動物さん達です。
何も求めずただそこに存在するだけで、無償の愛を注いでくださっています。
私にとっては、今、夜中にそっと近づいてきて、疲れた目のあたりを無心に舐めてくれるエンちゃん、そしてひび割れた手の甲を一生懸命舐めてくれるジェルちゃんの中に、また公園で私にシャーと威嚇してくる男爵君の中に、神を見てしまいます。
「神」という漢字から
「十」(十字架)を取って
「1」を引いたら
「ネコ」になります。
幸せになる為に条件付けをするのではなく、何かに求めるのではなく、もうすでにそこにあります、とネコが教えてくれています。
遠藤大先生の行きついたところに近づくのは、まだずっと先だと思います。
遠藤周作大先生を師と仰ぎ、今後も教えて頂こうと願っております。