jupes jupesの日記

Lanai Fukudaのくだらない日々

Merry Christmas!



今日は、2015年最後の満月であり、キリスト生誕をお祝いする日でありました。


師走とは思えないほど暖かい夜の空は澄み渡り、黄金色の完ぺきな円形の月が光輝き、キリストを祝福し、愚かなわれらをも温かく見守ってくれているような気がいたします。

生誕から2000年以上も経っているのに、世界中がいまだに同じ人を同じ日に誕生日のお祝いししているなんて、不思議な気が致します。キリストほど国や宗教や世代を超えて人々に浸透して愛されている方はいないでしょう。

キリストは少し以前に私に「私に会いたいと思うならこの世の一番辛そうな人を見なさい」と言った気がしておりました。

今日は昼間は用事で、新宿を通過し、駅近くの高架の下にいつもよりも多くのホームレスの方々が横たわっていらっしゃるのを横目で見ながら歩いている時、本当にキリストのおっしゃったことが、その時実感できた気がしておりました。

横には轟音を立てながら走り抜ける車の車道横の冷たい歩道の隅で、薄汚れところどころ擦り切れた季節感がないいつの時代のものかも不明な衣類を身にまとい、絡み切ったもじゃもじゃの頭を段ボール代わりの布団から少し出しておられる姿は、まさにキリストそのもののお姿に見えました。その段ボール上からは、神々しい光が放たれ荘厳ですらあり、思わず両手を合わせて頭を下げて拝みたくなる衝動に駆られてしまいました。

私にとってのキリストのイメージは、母親が敬虔なキリスト教徒だった為に、家の中にたくさん飾ってあった肖像画のエキゾチックな顔立ちのおじさんというものと、大人になってから読んだいろいろな本の中にあったキリスト像の中のものがあります。

キリスト伝の中でのキリスト像は、古代ユダヤの荒涼とした貧困にあえぐ人々の村で、その人々を税金で苦しめて支配していたローマ帝国に対しての正義感に燃える情熱的な青年の姿と、ユダヤの同胞の人々を救ってやりたい慈愛と博愛の気持ちを持ち続けていたのに、結局はどうしようもなくなってしまってやるせなさと怒り、また最後まで親しい人々まで自分を理解してもらえなかったという苦悩に満ち最後は、皆に裏切られてボロボロになって殺されてしまった、というどうしようもなく悲しいイメージでした。

日本であったら、時々昼間見掛ける営業で歩き回っている途中に疲れ切って公園のベンチに座り込んで缶ビールをやけくそな感じで飲んでいるサラリーマンと言った感じもあります。

つまりキリストは怒り、苦悩、そして悲哀に満ちた人のイメージなのです。

でも、その後に必ずくるものは人間のすべての苦しみを味わい尽くした末にある受け入れ受け留めた「諦め」なのか「開き直り」なのか、または人間はこう生きなくてはいけない、こうでなくてはいけないというものを解き放ち、すべてを許した人の姿なのです。それゆえどんな人でも、すべて理解して受け入れてくれる愛に満ちた方なのだと思います。

今日出会ったホームレスの方々の寝ていらっしゃる姿はそれらを象徴しているように見えました。