jupes jupesの日記

Lanai Fukudaのくだらない日々

人間界の疑問…


人間界の究極の苦しみの修行の場とは「家族」であるようです。

日々、家族の間で交わされる重く苦しい試練の数々の話を聞いていると、ふと思うことがあります。

人間も野生の動物を見習ったら、もっと楽に生きて行かれるのではないか、ということです。

たとえば「群れ」をひとつの家族にしたら、単体の家族というものは関係なくなるでしょう。

たいていの野生動物達を見ていると、強い雄がたくさんの雌に子供を産ませ、そして雄は子供を産ませたら、別の群れに去っていく(たしか…)、子孫を残すことができなかった雄たちは、群れでは権力を持ってトップには君臨できないけれども、雌の産んだ子供達の面倒をみる。自分の子供を産めなかった雌たちも他の雌が産んだ子供達の面倒を積極的にみる(ニホンザルがそうらしい・・・)
優秀でも、強くても、弱くても、奇形があっても大人たちは関係なく小さい子供達の面倒をみる、群れの大人達が生まれた子供達を大事に育て、お互いに協力しながら食料を分け合い、病気になったら看病し合い、そして年を取ったら、若者たちは年寄りにも食べ物を分けてくれるけれども、年寄りはわきまえていて、若者たちに優先的に食べ物を与え、自分たちは群れからそっと離れていき、静かに死んでいく…

野生の動物には結婚という決まり事もなければ家族という概念はないけれども、群れや子孫を残していく、ということをとても大事にしているように見えます。

群れがひとつの家族であるとしたら、誰それの子供だから、優秀だとか劣っているとか関係なくなるでしょうし、自己責任というものもなくなり、そもそもお隣同士の比べ合いや争いがなくなるでしょう。皆が皆を支え合って血をつないでいく、というのはとても素晴らしいと思います。

鳥さんの世界もいろいろあるようです。可愛らしい顔をした雀さん達も、餌を取り合う時は猛獣のように争っているのをよく見かけます。また鳥さん達はつがいで協力し合うと言われておりますが、以前、井之頭公園でオシドリ夫婦で知られているまるで色鮮やかな彫刻のような雄と地味な茶色の雌のオシドリのつがいを観察していたところ、常にぴったりと寄り添っていたつがいの雌がちょっと餌を食べに行っている隙に、雄はちゃっかりと近くにきた雌にちょっかいを出し、浮気をしている現場を見てしまいました。しかし、つがいの雌が戻って来ると、雄は何もしていませんというというような何食わぬ顔をして、また妻といちゃつき始めたのでした。どこの世界も雄って…とあきれてしまいました。まあ、それは動物公園の暇を持て余した鳥さん達だからかも知れません。野生の鳥さん達は、もっと生存競争に忙しく浮気をしている暇はないかも知れませんが…

動物界は、どこも一対の夫婦で生涯を過ごすというのは難しいのかも知れないと感じます。

地球でますます生物の数が減っていく中で、今までのように人間の尊厳において、夫唱婦随でなければいけないとか、家族が単位であり、すべては家族内の責任ということは難しくなってきていると感じます。

人間も野生の動物達を見習って、群れが単位であったらいいのにとつくづく思います。人間界の群れは、市町村でしょうか。

でも、そういうふうに感慨にふけっていると、ふと疑問が湧いてきます。

群れで協力し合う動物界は良いけれども、そちらの方が良いと思うのであったら、そもそも人間界にわざわざ生まれてきて苦労しなくても良いのではないかな、ということです。

わざわざ究極の苦しみをもたらす人間の家族の中に、苦労が分かっているのに生まれてきて、わざわざ修行をしている我らはやはり根本的にマゾなのかも知れません・・・

秋が深まりつつある日々、割り切れない思いに憂いております・・・