jupes jupesの日記

Lanai Fukudaのくだらない日々

キリスト教ね・・

キリスト教で、自分が信仰心の厚い信者になれなかったのは、天界の采配だったに違いない、と今では思います。

 

人は人を模範や目標にしがちです。

 

身近にいる、キリスト教にかかわる人たちの中で、こういう人を目標に、憧れ、こうなりたい、この人が信じているものなら従いたい、と思える人がいなかったのです。

 

まず母はとても敬けんなクリスチャンで善良な人でしたが、あまりにも強すぎる信仰心であったために、家庭よりも教会を重んじ結構家族が振り回され幼少期は、辛い思いをしたことが度々ありました。

 

幼少期のトラウマがあり、ずっとキリスト教を避け続けていたのですが、たまたま受験科目が少なく、そこしか受け入れてもらえなかった大学に入ると、そこはキリスト教の学校だったのでした。

 

 

その通っていた学校でも、尊敬される神学の偉い教授さまが、授業では「神は愛です。罪を赦します」と、重々しく威厳のある表情でおっしゃりながら、外に出た瞬間に修羅か鬼のような顔になり、目の前でタクシーが乗車拒否をして通り過ぎたものを、

 

「ちくしょー」

 

とこぶしを振り上げ、怒鳴って舌打ちをしているところを目撃してしまい、やはり偉い先生も皆、同じ、とため息をついておりました。

 

 

その後、縁があって勤めていたミッションスクールではミサの時間があり、神父さまシスター達、そして生徒達と一緒に、神妙な表情で、アーメンと十字を切っている教師たちが、教員室に集合すると、陰湿な教員いじめが横行し、かげでは教員同士の不倫は当たり前、ある体育の男性教師は、同僚の女性教師と3又かけて付き合い、そして女性にDVを繰り返していたと聞きました。

 

男性教師は、女子生徒との付き合いを禁止されていたにもかかわらず、なぜか上司達の奥さんは卒業生ばかり・・・

 

教えに来てくださる神父さまはアルコール依存症の噂あり、シスター達は女性社会のストレスで、生徒いじめが横行し・・・

 

またミーティングの後の打ち上げでは男性教師は受け持っている女子生徒の体の特徴を延々と嬉しそうに酒のつまみにするとか、その後は掛け麻雀三昧、更にまた打ち上げの二日酔いで、校長不在の時は、校長室で寝ている主任教師もいたのでした。

 

そして、いじめの女総番長かやくざの女親分のような校長が、朝礼などで生徒の前で、

 

「神は慈愛です。共に助け合い、いたわりあい仲良くしましょう」

 

聖母マリアのように優しい表情で両手をドラマティックに広げて、尊敬のまなざしで見つめている生徒達を包み込むようにおっしゃるのです。

 

あまりにも書きだすときりがなく、悪口の暴露本が書けてしまいますから止めます。

 

しかし、その偽善極まりない、人間の両局面の中にいて、私自身が混乱し、すべてが許せなくなり怒りに満ちあふれ、うつ症状になってしまっておりました。

 

うまく立ち振る舞っている上司など、校長に気に入れられ、どんどん出世して、その後、校長亡きあとは、自分が校長にまんまと就任したようです。

 

今の自分から観ると、その人達は、その世界で必死にもがき生きているのだから仕方がない、頑張って生き抜いて欲しい、と心から願います。

 

しかし、言葉を額面通りに受け止めていた当時の自分は、その人間達があまりにも醜悪で虚偽に満ちあふれていて、キリスト教にかかわる日本人は、皆ひっくるめて嫌悪感しか抱かないようになっておりました。

 

(ふと思うのですが、あの博愛で慈愛に満ちていらっしゃるマザー・テレサさまも、もし生きていらして、上司であったら、もしかしたら、実はものすごく意地が悪く厳しく、自分など


叩きのめされてしまっていたかも知れません。マザーのお顔は威厳に満ちていらっしゃるのですが、最近、どうも魔女にしか見えなくなっております。そのような強さがないと個性豊かな人たちを動かすことはできなかったのでしょう)

 

その後、そのミッションスクールを辞めてから、外国に仕事でいくようになると、やはりキリスト教大国のアメリカでは、どうしても、現地の方々と共に、教会に行かざるを得なくなりました。

 

しかし、現地の教会は、とってもオープンで明るくフレンドリーで、礼拝も歌と踊りと笑いに満ちあふれており、日本の教会の排他的で、じめっとした陰湿な暗さは微塵もありませんでした。

 

アメリカは教会がご近所との社交の場所であったり、助け合いの場所になっているようでした。

 

また最後に赴いたニュージーランドでは、かなり特殊な教会があり、

「スピリチュアリスト・チャーチ」 Spiritualist Church と呼ばれており、霊的なものを扱う、万人を受け入れ、癒す教会として、とても人気があった教会に衝撃的に出会い、受け入れて頂き、そして人生の方向性が徐々に変わってきたのでした。

 

最終的に、私はプロテスタントの信者を落伍致しました。

 

そして宗教は一切、止めることにしたのです。

 

遠藤大先生もきっと同じ思いであったのでは、と思いますが、宗教の中に神を閉じ込めてはいけない、神とは宗教などという人間どもが作った器に入れてはいけない、もっと大きな無限に広がるものである。

 

私にとって「神」とは「無」「無限の光」「何も無い光の源」

 

と感じます。

 

見たくても、見ることはできない、

 

求めても答えをくださらない

 

けれども、大きな無限に広がる光の中に包みこんで受け入れてくださる、それが愛かな

 

そんな気が致しております。

 

LOVE