今更書くと後出しじゃんけんのようになってしまいますが・・・
少し以前、クライアントさまから、何気なく、「新元号はどんな名前になるでしょうね?」と訊ねられておりました。
私は、ふっと
「ジェイワくん」というJRのキャラクターの名前が浮かんで参りました。
また江戸時代の明和の大火事のあった「めいわ」という単語も聞こえておりました。
最近、和子さんという方々にも多く知り合っていたことで、「和」が気になっておりました。
「和」(Harmony 調和の意味)という名前が入るのでは、または入ったら良いな、と願っておりました。
令和の令の字は少々冷たいイメージがあり、できたら栄和とか結和、とか光和とか、正和とかが良かったかな、と思いました。
そしていきなり、紙幣が一新し、新しい肖像画なる話題が浮上し、そこにも、不思議なものを感じておりました。
まず、渋沢栄一公は、現在、私が豊かさのマスターとして崇めているお方です。
ちょうど10年前の2009年、兵庫県の西宮にセラピールームを持って3年が過ぎた頃、「東京に戻りなさい」という天界のメッセージを受け、何もあてもないまま、東京に戻ってきて、大天使ミカエルに願い、「最高最善の物件が見つかりますように」とすべて委ねて、自由が丘の不動産に行ったところ、一件目ではケンモホロロに追い返され、屈辱を受けた傷心のまま、一階下の「ハウスコム」さんのドアを開けると、一斉総立ちの歓迎を受け、その部長さんに「あなたにぴったりな物件はここしかありません!」と連れられて行ったのが、田園調布の新築テナント物件でした。
セラピールームにするには、イメージ通りの、一階で表に面し、太陽の光が十分入る、明るくゴージャスな全面ガラス張り、白を基調にしたフローリングの20畳以上もある素晴らしい物件でした。
しかし、想定外の家賃の高さに、緊張に震え、汗ばみ、そして青くなりながらも大家さんと契約を交わしてしまったのでした。
大家さんによると、私が来るまで一年間、たくさんの方々と契約しそうになりながらも直前でダメになってきたそうです。まるで、私を待っていたかのように、一年間誰も借りずに空いていたそうでした。
それにしても、月々の家賃に更に加わる様々な管理費やら経費やら合わせると100万円近くにもなりそうでした。それらが支払えるか、と茫然自失になりながら田園調布の駅に向かった時、駅の広場の噴水前にあったベンチで思わず座り込んでしまいました。
するとその噴水の近くに、看板が設置されており、この田園調布の住宅地のデザインと土地の開拓をしたのは、経済の父「渋沢栄一氏」である、とありました。
ふと駅の向こう側を観ると、放射状線に街路樹のある小道が広がり、その小道の両脇には中世のヨーロッパのお城のミニチュアのような豪邸が厳かにそしてゆったりとした佇まいで立ち並んでおります。
思わずお上りさんそのもので、吸い込まれていくように、その豪邸見学に乗り出したのです。その放射状に広がる豪邸と豪邸の間の小道を歩きながらふと、上を見上げると、街路樹の隙間からは木漏れ日が差し込み、そこは現実ではないような4次元空間に入ったような不思議な感覚となるのでした。すると先程までの不安はゆっくりと消えていき、この街の住人の一人になることの喜びと高揚感の方が大きくなっていったのでした。それからというもの、時間さえあると、その街路樹の豪邸見学散歩に繰り出していたものです。
その時から、渋沢栄一氏は、私の豊かさ、アバンダンスのマスターとなってくださったのです。
押し寄せてくる経済的な不安は天界に吐き出し、すべてをゆだね、お任せをすることにしたのでした。
その時ほど大胆な冒険は今はなかなかできませんが、今も何かと渋沢栄一公は、経済的なことを助けてくださいます。
北里柴三郎大先生とは直接まったくご縁はないのですが、高校生の時、獣医になるのだったら、北里大学に入りたいな、と漠然と思っていただけでした。自分には北里大学に入れる条件は何も揃っていなかったのですが、その後、出会う人々の中に北里大学出身の方々が数多くおり、その出身大学を伺うたびに、自分がそういえば獣医になりたかったのだ、と思い出させられるのでした。
また津田梅子さんに関しては、やはり高校生の時に、夏休みの課外講義はいつも高校近くにあった津田塾大学で開催されており、郊外の静かで森の中の広場のような芝生のある教会のようなキャンパスライフを少しだけ味わわせて頂いたものです。
数年前、再び社会人講座もそこで受講させて頂き、とても懐かしい気持ちになっていたものです。
なんとなく、間接的にですが、自分とご縁のある事柄や人物に脚光が当たるとまるで自分にも脚光が浴びせられたような気分になるものです。
だからなんだっていうんだい
あ~退屈な話!
寝よ・・・