jupes jupesの日記

Lanai Fukudaのくだらない日々

新年度・天界の講座

 

2023年の

 

「新・天界の講座」

 

の日程をホームページで更新させて頂きました!

 

今年も天界よりご指名頂きまして、講座を行わせて頂けることに心から

天界のマスター達に感謝です!

 

皆さまにも深く感謝申し上げます。

 

2023年度も天界の講座をどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

新・天界の講座案内 | エンジェルヒプノセラピー (angelhypno.jp)

 

皆さまの講座代やセッション料は、ほぼそのまま、スライド式にネコ(神)ちゃん達に使わせて頂いております。

 

感謝

 

すべての存在に天界の最高最善の愛と光を

 

LOVE & LIGHT

 

 

深い河の読後感想・・・

遠藤周作大先生の「深い河」を拝読させて頂きました。

 

読むものをしっかりと離さず引き込み魅了され、3日で読破してしまいました。

しかし、大先生は書き上げるのに3年間かかったというものを3日で読み切ってしまうのは、まるで冒涜しているようで申し訳なく、今後は、再度内容をじっくりと反芻するように吟味させて頂こうと思います。

 

またご本の参考書のようなものも、いろいろと拝読させて頂こうと思っております。

 

わたしごときものが、大先生の大作をそんな簡単に述べては罰が当たりますが、

僭越ながら、読書後の感想としましては、

 

「これは遠藤周作大先生の人生そのものではないかな」

 

と思われたことです。

 

すべての登場人物の中に、遠藤先生の人生が散りばめられており、自己投影して昇華していらっしゃる感じが致しました。

 

その中には、善人もいれば悪人もおり、天使とルシファーの両面があり、大先生だけではなく、すべての人間の中に混在する、ということも表しているのかも知れません。

そして、遠藤先生の人生の大きなテーマとして、「神とはなんぞや?」ということがあると思います。

 

それは万人のテーマでもあります。

 

日本の普通の人たちはそれを口にするのさえ、気恥ずかしくおっくうであり、心にふたをして閉じ込めてしまい、表面的にはご利益信仰で神社仏閣を訪れるくらいです。

 

それにもかかわらず、新興宗教に没頭し身を滅ぼしてしまう人が日本にも数多く潜在しています。

 

遠藤先生は、「神」「宗教」というテーマをほじくり返し、これでもか、これでもか、ともがき苦しみながら、自問自答し、また他者に答えを求めてカトリックの信者になりフランスのリオンにまで留学までし、学術的なものの中に、神というものの答えを求めようとされたようです。

 

しかし、どんなに求めても、答えが出ずに、かえって苦しまれたように思えます。

 

西洋の神学では、小説の中にもあったように、神というものは、論理的に崇高でクールで遠い存在のように思えます。

 

それでも信者になって、教会に通い、神父さまの言うとおりの行いをし、聖書を読み続けて祈り続けていたら、天国が門を開いてくださる、そんな感じに思えます。

 

それを神学者さん達が、歴史上ではこうであるとか、あーだこーだととにかくややこしく難しく図書館ができたり大学ができるくらいの学問にまで発展させて、でもそのおかげで、芸術的な文化も発展して西洋美術や建築の中に、キリスト教が昇華して後世に残るものとして、花開いていますね。

 

遠藤大先生は、その完成された美しく統一の取れたものの中に神さまというものを見出せずにもがき苦しみ、文学の中でも自問自答していらっしゃる感じがします。

 

ずっと以前に読ませて頂いた「沈黙」は映画にもなりましたが、まだその中では「神さま」とはなんぞや?と日本の黒歴史でもある隠れキリシタンを通して、なんでそれまでにして信仰を保ち続けられたのか?と研究と調査をつづけながら、遠藤先生の中にあった疑問を晴らそうとしていらした気がします。

 

しかし、「沈黙」の中では、その言葉通り、神様はお答えくださらず、最後まで苦闘されていて、読んでいるこちらまで、苦しくなっておりました。

 

しかし、この「深い河」では、遠藤先生が、「もうこれ以上書くことはない」とおっしゃった通り、この中に先生が見出したすべての答えが詰まっている感じがしました。

 

登場人物の中の、インドのヒンズー教の教会に拾われたという、カトリック神父を落伍した「大津」という人が、遠藤先生の見出した答えをあちらこちらでつぶやいています。

「神という言葉が嫌なら玉ねぎと呼んでいい」「玉ねぎはあちらこちらにいるんです」

「愛という言葉が嫌なら命のぬくもりと言っていい」

 

と言わせています。

 

そして、当時(90年代?)のインドはまだカースト制度が根強く、それにも属せないアウト・カーストと呼ばれる、極貧民がいて、街のあちらこちらで産まれてはのたれ死んでいく、という地獄絵図のような光景が見られたようです。

 

それらも含めて、すべてのインドの人たちは、一生に一度でもガンジス川の聖なる水で沐浴すれば、生まれ変わった時により良い人生になる、とか、死んだ後で遺体を川に流してもらえたら、もう輪廻転生から卒業して、天国に帰れる、と信じているとありました。

 

(かつて、私も人生につまづいた時に、インドのマザーテレサのお作りになった活動に参加しようと浅はかな計画を立てたことがあったのですが、シスターに断られ、その後、とある銀行の待合室で「ナショナルジオグラフィック」のインド特集ページをふと目にし、ガンジス川で沐浴をしている全裸の男性のドアップ写真があり、その背後で死体が流されていたり、牛が浮かんでいるのを見て、「行かなくて良かった」と心から安堵したものでした・・・日本人の衛生概念ではとても受け入れられるものではありません)

 

 

西洋の街と違って当時のインドの街は、貧富の差など天国と地獄のようであり、すべてが混とんとして渦巻いていたようです。

 

そんな中でガンジス川だけが、鉛色の水で悠々と流れ、そのすべてを受け入れてくれる、究極、神とはその川のようだ、とおっしゃっている気が致しました。

 

善悪も美醜も、貧富も関係なく受け入れてくださる、そしてただ静かに流れる・・・

 

ただ、私がそのガンジス川に求める人々に対して感じたことは、人生の中で一度でも川で沐浴すれば、来世ではより良い人生と手に入れるとか、輪廻転生を卒業できる、というのは、究極の欲、煩悩ではないか、と思ったことです。

 

よく人は、これさえすれば幸せになる、これさえ手に入れれば幸せになる・・・

 

というように、

 

「こうしたら」「ああしたら」「これさえあれば」「こうなったら」

・・・

「幸せになる」「良くなる」

 

といいように単純なほど条件付けをしたがる気がします。(かつての私もそうでした)

 

当方にも、

 

「天界学さえ修了すれば、死後は天界に行けるのですよね?」

 

「天界の講座を受けさえすれば、天界のセラピストになれるのですよね?」

 

「天界学を修了したら天界のレベルに達せますよね?」

 

と聞かれることが度々あります。

 

その度に

 

「天界学はもちろん、天界のゴールへの最高最善のスタートであり、最短近道ではありますが、これが出発点であり、その後はその人次第なのです・・・」

 

としかお答えしようがないのです。

 

「これさえすれば、こうなるはず」

 

と条件付けするのは、古来からの既成の宗教にありがちなものです。

 

たとえば、「阿弥陀仏と念仏を唱えれば極楽浄土に入れる(浄土宗?)」

 

とか

 

「南無妙法蓮華経と唱えると、現世でこの身このままで即身成仏できる(日蓮宗?)」

 

とか、

 

古来から、人は苦しみばかりの人生で必死に救いを求めてきたのだと思います。

 

それは修羅のこの世があまりにも辛く、何かに救いを求めたいというのはすべての人の当然のものだと思います。

 

人間は救いのシンボルを求めるのですね。

 

救いの器が、西洋では教会であり、アジアでは寺院であり、アイコンが、十字架であったり、キリスト像聖母マリア像、であり、インドでも神々の像、女神像、そしてガンジス川なのですね。

 

「深い河」の中で、神を否定しているルシファーのような美津子という女性は、川よりも自然の中に深い慈愛のようなものを見つけています。

 

また沼田という童話作家も、野鳥保護区や放した九官鳥の中に解放を見出しています。

 

遠藤先生がおっしゃりたかったことは、

 

すべてのものの中に神は存在する、特別な宗教的なものの中だけに神がいるのではない、

 

神を信じる者だけが救われるのではない、

 

もうすでにあなたは救われているのだ、

 

 

ということなのかも知れません。

 

 

神とは、

 

欲しい

 

求め

 

すがって泣きわめいて助けてくれ

 

くれぬなら奪い取ろうとする人間達

 

をたたただ静かに見守り無限に広がるもので包んでくださっている

 

 

それが神の愛

 

とおっしゃっている気がします。

 

でも、それで良いのです。

 

求めて求めて、苦しんで長い旅をして・・・それが生きるというものです。

 

神はそれを見守り受け入れ許してくださっています。。。

 

地球に人間としている限り、それで良いのです。

(なんでも許してくださるからと言ってなんでもしていいとはおっしゃってはいないでしょうね。人を傷つけたり迷惑をかけたり、はいけない気がします)

 

たぶん・・・

 

 

人間にくらべて

 

対極にあるのが

 

地球の自然や動物さん達です。

 

何も求めずただそこに存在するだけで、無償の愛を注いでくださっています。

 

私にとっては、今、夜中にそっと近づいてきて、疲れた目のあたりを無心に舐めてくれるエンちゃん、そしてひび割れた手の甲を一生懸命舐めてくれるジェルちゃんの中に、また公園で私にシャーと威嚇してくる男爵君の中に、神を見てしまいます。

 

「神」という漢字から

 

「十」(十字架)を取って

「1」を引いたら

 

「ネコ」になります。

 

幸せになる為に条件付けをするのではなく、何かに求めるのではなく、もうすでにそこにあります、とネコが教えてくれています。

 

Angel

Angel

遠藤大先生の行きついたところに近づくのは、まだずっと先だと思います。

 

 

 

遠藤周作大先生を師と仰ぎ、今後も教えて頂こうと願っております。

 

 

 

222の日・ネコの日

本日は 222 猫の日ですね!

 

世の中は相変わらずネコちゃんブームが続いているようです。

 

先日の「みんなの動物園」では預かっている、懐かないネコちゃん達にスタジオの皆で、ネコちゃんが「鳴いた!」とか「隠れた!」とか「出て来た!」というネコちゃん達の一挙手一投足を見て、一喜一憂している姿を見て、ネコをお世話している身でも「ネコごときに大の大人たちが雁首並べて・・・」と呆れかえってしまうほどです。

 

ネコ一匹の為に、部屋中に大量のカメラを置いて24時間撮影して延々と保存して編集しているなんてすごすぎます。

 

完全に人間が振り回されています。

 

やはりネコは魔物ですね。

 

魔術で人間を操っています。

 

実は、お世話になっている埼玉のボランティアさんからの情報では、二子山親方さんのお宅に行った「ブルー君」は、去年こちらで4匹お預かりした子達の兄弟であるそうです。

 

その子も埼玉県のある47匹多頭飼育崩壊から救出した子達の中の一匹だそうです。

 

こちらの子達は、全員、

 

「懐かなくても良いんです」

 

と有難くもおっしゃってくださったお宅にもらわれていき、今でも懐かなく、マイペースで自由に過ごしているそうです。

 

それが本来のネコの姿かな、と思えて参ります。

 

たとえ人間にごまをすらず、迎合しなくても、そのままのスタイルで自由に、かつ健康でいてくれさえばそれで良い、と思ってしまいます。

 

ネコといういきものは、懐かなくても媚びを売らなくても、そのままの自然体でいて良いのです。。。

 

昨晩も、もう5年以上公園で餌やりをしている「男爵君」が久しぶりに姿を現し、私にご挨拶の「シャー」をしてくれました。

 

この子は、もうダメかな、と思うと気まぐれのように姿を現します。

 

たぶんもう10歳くらいになると思われる、外ネコにしては頑張っている雄ネコちゃんなのですが、もう一年以上前から、目やにが酷く、時々よだれも出し、どうも猫エイズになっているような気がします。

 

何度も捕獲保護を試みても、絶対に捕まらない、外ネコのプライドにかけても、人間の手中には入らないぞ、と心に決めているように見えます。

 

もう力尽きて動かなくなった時にしか、男爵君は捕まらないと諦めました。

 

もし、最期の時を看取ることができたら、それは幸い、と思うようにしております。

 

それくらい、ネコは高貴で尊厳がある動物さんだと思います。

 

今までテコでも動かなかった私を毎日夜4時間も動かしてくれています。

 

おかげ様でかなり健康になって参りました。

 

 

今、外ネコちゃんの餌やりを手伝ってくださっている方も、かなり元気になってこられたように見えます。

 

その方は、昨年の8月くらいに、貼っておいた、ネコボランティア募集のポスターを見てやってこられた方でした。

 

餌やりを手伝いたい、とおっしゃって数日間だけ同行してくださり、その後、姿を見せなくなってしまったため「やはり無理でしたか」と思い、よくあるいつものこと、と放置しておりました。

 

その後、ある日突然、その方の彼女さまが来られ「実は数年前に、彼はアルコール依存症で入院していて、お酒を止めていたのに、急にまた飲みだしておかしくなってしまいました」と涙ながらに告白してくださいました。

 

それをうかがい、「ネコ活動では天界の光が強すぎて、浄化作用が起きたのだな」と思いました。

 

そんなことは一般の方には申せませんので、「それはそれはお気の毒に・・・」としか言えず、ひたすら遠隔ヒーリングをお送りしておりました。

 

それから1週間後くらいに、突然、その彼氏さまが餌やり現場に現れ、

 

「もうすっかり元気になりました!」

 

と、なんともさわやかな声とすっきりとしたお姿でいらっしゃいました。

 

それからというもの、半年以上も一日を休まずお手伝いをしてくださっています。

 

口数の少ないその方が、餌やりをしながら、ぽつりぽつりと身の上話をしてくださり、話す度に元気になっていらっしゃる感じがします。

 

実はあのボランティア募集のポスターを見る前までは、足が不自由で車いす生活をしていたこと、3年くらい引きこもりで家から一歩も外に出なかったこと、そのずっと前までは会社をやっていて、やりたいことを全部やり尽くして、人生で希望を見出せなくなっていて、アルコール依存症になってしまった、などなど、少しずつ話してくださいました。

 

(また奥さんと子どもがいながら、別居して一人暮らし。親族公認のあの彼女さんがいらして、奥さんと同居しているお母さままで、その彼女さんにすべての信頼を置いている、という新時代の家族のスタイルを実現していらっしゃいます。これからの時代は、一夫一婦制はなくなるという兆候を表しているのでしょう。あの有名な生涯、一夫一婦制を貫くと言われている「オシドリ」さえも浮気をします。私はかつて、井の頭自然文化園での鳥観察で極彩色の群れの中で、その浮気現場を見てしまい「オシドリよ!お前もか!」とつい叫んでしまいました・・・)

 

 

この活動は、その方にとっては人生のやり直しのための転機であったと思います。

 

天界は、その方に蜘蛛の糸を垂らしたのですね。

 

その方は、接しているととても純粋な精霊さんの生まれ変わりのように感じます。

 

アース・エレメンタルと呼ばれる、多芸多才、無邪気で素直で明るく繊細で優しいエンターテイナーでありますが、人間界では他人と協調することを好まず、一匹狼になりがちな方々です。

 

俳優さんでは、亡きロビン・ウイリアムズさんが有名です。

 

そのボランティアさんを見ていると、ロビン・ウイリアムズさんを彷彿とさせてしまいます。

 

ロビン・ウイリアムズさんも素晴らしいアース・エレメンタルさんだったと思います。

 

もしロビンさんが、ネコ活動とか、なにか地球の精霊さんのための活動をされていたら早くに天に戻ることもなかったかも知れない、と思えて参ります。

 

そのボランティアさんは、ネコちゃんの餌やりをすることが、生きるためのリハビリになっているように思えます。

 

その方が、また急に餌やりをすることを止めて、これで卒業、となっても、それはそれで良いと思います。

 

その時は、もう十分リハビリが終わったから、次なる段階に、という時だと思います。

 

どんなことが起きても、それは天界から頂くメッセージだと思い、へりくだって受け入れます。

 

ネコちゃんの日に

 

すべての存在に天界の最高最善の愛と光を

 

これでいいのだ

これでいいのだ

これでいいのだ

 

2月の新月おめでとうございます!

本日、2月20日は、新月ですね!

 

2,2の日

 

2は 平等 協力を意味します。

 

すべての存在達に天界の最高最善の愛と光を

 

新月の前の日に、天界の奇跡と思えることがありました。

 

またもや明と暗はありましたが・・・

 

 

まず、とても明るい素敵な出来事として・・・

 

昨日、近くにもらわれていった「ひめ」ちゃん

(昨年の東西合戦の茶トラ軍団からひっ捕らえた、いえ、保護させて頂いた茶トラ4兄弟姉妹の最後にもらわれていった一匹の女の子)

 

のご家族さまから、呼び出しがありました。

 

かれこれ、一か月も前から、ご夫婦が他の日が忙しいから、と日にち指定されてくるようにお願いされていたことでした。

 

「慣れない」「逃げ回って捕まえられない」「爪が切れない」「ソファーにおしっこをする」「なんとかして欲しい」・・・

 

などという、クレームとも、悲鳴とも捉えられるコメントがあり、可愛がってもらえていないのでは、と少々ゆううつだな、と思いながら、爪切り用の洗濯ネットと、追い詰めて捕まえるための大きいタオル、そして爪とぎポールを購入して、指定の時間に訪問させて頂いたのです。

 

玄関から入るとすぐにご主人と奥さまがいらして、

 

いきなり、まのびした奥様の声で、

 

「じつは~、もう爪切ったから、大丈夫です~」

 

とおっしゃられ、出鼻をくじかれてしまいました。

 

「は?」「どういうことで?」

 

その為に呼び出されたんではないかい?だったら早く言っておいてください!こちらもいろんなことを済ませて急いで走って来たのに!

 

(このご夫妻、とても純粋?単純?で良い方々だと思うのですが、なにか私とは噛み合わない天然なところがあるようです。年末年始も私も一日くらいは実家の大掃除があるとお伝えしたにもかかわらず「前にも来てもらいましたが、今回もキャットシッターをお願いします。できないんだったらこっちにも考えがあります」と脅迫めいたことをLINEに書いてこられたので、少々恐ろしくなりうかがってみると、ケージの前に大袋の一番安いフードがどっさりと置いてあり、あまりお世話もされていない風であったので、私はもう遠慮せずに電話をしてバンバンと言いたいことを全部言ってやったのでした。結構、素直なお二人は、すぐにロイヤルカナンを発注し、キャットタワーも購入してくださったようです)

 

しかし、玄関先で、今回も奥様はいきなり私に「キャットシッターって一日何件回ってるんですかあ?」ととぼけた声で訊いて来られたため「キャットシッターなんてやっていません。別の仕事をしておりますので。これはボランティアです」というと、「はあ~そおなんだあ」と分かっていないような答えを返してこられます。もう理解をしてもらわなくて、結構です。とにかくひめちゃんさえ無事で可愛がってもらえていたら十分、と思いました。

 

そのまま立ったままの状態で、奥さまは、

 

「じつは~、ちょうど2週間前に突然ひめちゃんが豹変したんですう。その日にいきなり甘えた声ですり寄ってきて、ひざにのっちゃうんです~。それですぐに爪も切れましたあ」

 

とおっしゃいます。

 

「あとお~、水の飲み方も変になったんですう~。いっきにがぶがぶと飲んでゲホゲホとおっさんみたいにむせるんです~。あはははは・・・」

 

そのお話を聞いて、ちょっと震えました。

 

「その日は、こちらのあの楽ちゃんが亡くなった日です!それに楽ちゃんはそんな風に水を飲んでいました」

 

というと、ご主人の方が、楽ちゃんを覚えていらして、

 

「え?あのだみ声のおばあちゃんネコが?死んだんですか?」

 

とおっしゃいます。

 

私の中に、楽ちゃんの記憶がいっきに渦巻きました。そういえば、楽ちゃんはその奥様と同じような髪形をした年齢の近い中年の女性が好きで、その方が来るとゴロゴロと喉を鳴らしてすり寄り、お腹を見せてごろんと横になっていたのでした。

 

楽ちゃんは、こちらに来た時から、腎臓病末期で、多飲多尿であり、ものすごい勢いで水を飲み、その後、歩きながら、ゲホゲホとせき込んでいたものです。

 

楽ちゃんが、ひめちゃんに入ったのだと確信しました。

 

それから、楽ちゃんの思い出話をいろいろとさせて頂きました。お二人はとても素直な方々でちゃんとお話しをすると従順に聞いてくださる方々でした。

 

ただ、魂がお若いと見え、いろいろとお教えしないと、ご自分たちではネコちゃんに関しては動かない方々でした。

 

今回も2時間ほどゆっくりとお話をさせて頂き、楽ちゃんが入ったひめちゃんを安心してお任せできると嬉しくなりました。

 

楽ちゃんの魂が茶トラの女の子に3分の2くらい入って、若返ったのですね。そして一匹で伸び伸びと真新しいデザイナーズハウスで暮らせるなんて、最高です。

 

楽ちゃんにとっても、ひめちゃんにとってもそしてそのご夫婦にとってもすべてに良い結果となりました。

 

「また旅行に行くときはシッターお願いしますう~」

 

と言われても、

 

「良いですよ」(喜んで楽ちゃんに会いにきますよ)という気持ちになりました。

 

 

そして、次の出来事。

 

その日に着信したLINEで、先日旅立った黒子ネコちゃん姉妹の「あずきちゃん」と「あんず」ちゃんのご家族の奥様から

 

「亡くなった先住ネコのちいちゃんが、なんだかあずきちゃんに生れ変わったみたいに見えて泣けてきました。あずきちゃんは、ケージから出るとちいちゃんが使っていた寝床に迷わずまっしぐらに走っていって、そこで寝たり、ちいちゃんのおもちゃをみつけて遊び出したんです。すごいです。こんな奇跡ってあるんですね!」

 

とありました。

 

「そういう奇跡だらけですよ」

 

とお伝えすると、

 

「毎日、ネコちゃんの奇跡ばかり発見して涙ばかり流しています」

 

と返って参りました。

 

これも、楽ちゃんが起こしてくれた奇跡だと思います。

 

楽ちゃんが天使になってから、急にそれまで滞っていた、譲渡がいっきに加速したり、懐かなかったひめちゃんが懐くようになったり、と素晴らしいことばかりが起こっております。

 

(思い出したことに。楽ちゃんを捨てたオバアサンも、かなり天然な人でした。ぼんやりしたしゃべり方も似ていた気がします・・・)

 

 

そういえば、茶トラ軍団は、楽ちゃんのことをおばあちゃんのように慕っていた気がします。

 

ネコちゃんが幸せになって、人も幸せになる、素敵なことです。

 

その一方で、愛されるネコもいれば、憎まれるネコもいるのです。

 

昨晩、また外ネコちゃん用に置いたフードの中に薬の粉のようなものを入れられてしまいました。

 

今回のお皿は、空き家の縁側に置いていたために、外部の人間は入ってこれないはずです。

 

それを不法侵入してまで(私もですが・・・)入ってきて、ネコを殺す目的で、フードに毒を入れたに違いありません。

 

それをみた途端に、それまで高揚していた気持ちが一気に地獄に落ちてしまいました。

 

自分の置いたフードのせいで外にいるネコちゃん達が死んでしまったら、どうしたら良いのか。

 

罪悪感の塊になります。

 

後悔してもし切れません。

 

これまでどんなに自己防衛しても悪魔のようなうごめくものは、地獄の沙汰と化して執拗に追い打ちを掛けてきます。

 

とにかくネコちゃんのフードは極力隠すしか方法がありません。

 

そして、新たに設置するために、屋外用の防犯カメラを購入しました。

 

警察に行っても結果は分かっています。

 

捕獲の時に、誰かの通報があると、何台もパトカーがやってきて、警察官も10人くらい来て、正しい人間を犯人扱いし取り締まるくせに、こちらが、ネコの虐待疑惑犯人追求を依頼するようなことでは、鼻であしらわれる程度です。

 

新月の日に、天界に正しい裁きを願います。

 

すべてが最高最善の結果になりますように。

 

すべての存在達に天界の最高最善の光が注がれ、正しきものが明るいところに立てますように。

 

きっとそうなります。

 

天界の最高最善の愛と光を

 

 

               

若くなったね。楽ちゃん  

この子が意地はっていて私みたいに捨てられたら困るからね!入ってやったわ!

 

明暗

昨日はまた、明暗の分かれる一日でした。

 

午前中は、Hさまご夫妻のご厚意でキャットフードを大量購入のご搬送をして頂きました。

 

ホームセンターの綿半にお連れ頂くと、有難いことにアウトレットセールの棚に、いつもなら税込みで1,000円近くするフードが税込みで660円とありました。

 

何とラッキーな!

 

ご夫妻さまのご協力であるだけカートに入れてしまいました。

 

そこに東村山でネコの個人ボランティアさまが、その棚を見つけてやって来られ、最近の急激な値上がり傾向を恨む話題をしつつ、市の援助も頂けないというお話もうかがいました。

 

しかし、個人ボランティアさんが人知れず頑張っていらして本当に素晴らしい有難いことです。

 

その方の分も取っておきましょうか?と伺うと、こちらにお世話している外ネコちゃんは、今は、1,2匹しかいないので、そちらの66匹のネコちゃんにお譲りします、とおっしゃっていただきました。

 

感謝です。

 

他のドラックストアで取り置きしてもらった分と合わせると、これで3月いっぱいは持つかな、とつかの間の安堵をしておりました。

 

Hさまご夫妻には、2か所のお店に行って頂き、大量のドライフードとスナックフードと缶詰を、それぞれの保管場所にまでお運び頂き、本当に恐縮しております。

 

これはかなりな重労働です。足腰がきしむほどに重い荷物を運んで頂き申し訳なくも有難いことです。

 

心から、感謝に堪えません。

 

お車の後部席が沈むほどの量のフード

 

 

そして、今度はしばらく行っていなかった自分の買い物を済ませようと、同じドラックストアーの方に自転車で出掛けると、それほど遠くない方面に、白と灰色が混ざった煙が、空に向かって立ち昇っているのが見えました。

 

これは火事かも知れない、と思っていると、携帯電話が鳴り、Mさまからで、

 

「今、テレビでもやっているけれども、近くで火事があったわよ、それもあなたがいつも餌やりしている駐車場の隣よ」

 

とおっしゃいます。

急いでそちらの方を見てみると、足元に火の粉が舞ってきて、焦げた臭いが風に乗って襲い掛かって参ります。

 

意を決してそこに行ってみると、その辺りは、まるでパニック映画の撮影所くらい、これまで見たこともない程の消防車がずらっと並び、警察の方々が、道路にテープを張りめぐらせ、立ち入り禁止の通せんぼをしております。

 

恐ろしい数の消防車と救急車、そしてパトカーの鳴らすサイレンの音が鳴り響き、大変な喧噪です。

 

 

そこに野次馬の人たちも数多く集まり、物見の見物をしています。

 

その現場には到底、入れなかった為に、丘の畑の方から眺めると、まさにそこは、毎日、餌やりをしている駐車場の場所であり、その真隣の家から、もうもうと煙が立ち上っていました。

 

そこに以前、ネコ活動をお手伝いしてくださっていたご婦人が、偶然通りかかり、

 

「あのおじいちゃんは問題の人で、こちらで見守りをしていた人です」

 

とおっしゃいました。

 

また、野次馬に来ていたご近所のご婦人方が大声で、火事の話をしていました。

 

Mさんのお話を合わせると、火元になった家の、そのご老人は、庭にごみを集めてきてはドラム缶に入れて焼いていた、近所の人たちはいつか火事が出るのではと恐れていた、その恐れていたことが起きてしまった、とのことです。

 

私も毎日、そのお宅の側を通っていましたが、昭和風な古びた家屋の庭には不可解な機械の金属の破片が積み重なり、そこに枯れた植木や、どこかで拾ってきたのか、スーパーのかごやら屑ごみのようなものが堆積していて、そこだけが、時代に取り残された奇妙な異空間のようなところと思っていたのです。

 

どうしても夕方の餌やりを案じてしまいましたが、その時間になると、なんとか、遠回りをしながら、全部の場所に配膳することはできました。

 

消防署の方々は、6時を過ぎても、ホースを片付けたりしていましたが、こんな喧噪の

中でも、しっかりといつものネコちゃん達は、マイペースに悠々と、それぞれの場所で待っており、生き強さを感じておりました。

 

夜、8時過ぎにお皿の回収に行ってみると、無残な廃墟と化した4件の家が空虚に暗闇に浮かんでいました。

 

ほんの数時間前までは、平和な普通の家々であったものが、瞬時にこのような姿に変わってしまう、火の持つ脅威を感じました。

 

昼間の火事であった為に、家人がお留守でまったくけが人は出なかったようですが、

仕事をしている間に、自分の家が消滅しているなんて。

 

朝、普段通りに家を出て、帰ってきたらすべてが消え去っているなんて、誰が想像できたでしょう。。。

 

昨日まで、普通に暮らしていて、普通に使っていたものが、もう帰ってきたら、黒こげの塊になって目の前にあるなんて、なんという言葉にならない怒りと悲しみと絶望を感じます。

 

ああしておけば良かった、こうしておけば良かったと、後悔ばかりが残っているでしょう。

 

人には説明できない大事で大切なものもたくさんあったことでしょう。

 

それを4件のお宅の人々は、もう取り戻すことができないのです。

 

物見見物に来ていた近所の人々は、どちらかというと嬉しそうに見えるような興奮気味に大声で噂話をしていました。

 

もちろん深い同情心もあるでしょうけれども、ご自分らに被害がないと他人事であり、無責任で面白半分の気持ちになるのかも知れません。人間ですから、仕方がありません。

 

それがわが身に降りかかったら、まったくの別な感情になるのです。

 

被害にあったご当人の方々のどこに向けて良いか分からない怒りと悲しみと絶望感が、炎で爆発した窓で微風に揺れる亡霊のようなカーテンの切れ端に感じ取れました。

 

 

 

そのご老人は、無限地獄の不徳を積んでしまいました。

 

しかし、その両隣で、外ネコちゃん達に餌をあげていた2件のお宅はまったく無傷であったのです。

 

内部が消滅したお宅の真隣のお宅は、以前、あの伝説の「もみじちゃん」のお世話をしていたお宅でした。

 

そのお宅の真横の家は、見るも無残な姿をしていたにもかかわらず、もみじちゃんのお世話をしていたお宅は、26台もの消防車のホースでかけていた、化学的な泡を含んだ水のダメージさえも受けていませんでした。

 

壊滅的なお宅の道を挟んですぐのお宅も、もみじちゃんと他のネコちゃんに餌をあげていたお宅で、そのお宅もまったくの無傷でした。

 

これはネコちゃん達からの恩返しとしか思えません。

 

そこにご自分は90歳であるという、どうみても70代くらいにしか見えないご婦人が通り掛かり、私の自転車のかごの中の餌やりの荷物を眺めながら、ご自分も野良ネコちゃんをお世話しているのだけども、ネコちゃんのものすごい程の愛を感じている、人には言えないけれどもあなただったら分かってくれるでしょう?と話し掛けられました。

 

そのご婦人のお宅も火事のあったお宅から5メートルも離れていないお宅でした。

 

そのお宅もまったくダメージがなかったようです。

 

そのご老婦人は私に深々と頭を下げ「ネコに代わってお礼を申します」とおっしゃってくださいました。そんな気恥ずかしいことを言われることはめったにありませんから、かえって恐縮してしまいました。

 

この火事をすべての人々への教訓として、謙虚にへりくだって頂きます。

 

精霊さま方にも感謝

 

被害に遭われた方々には何もお手伝いができない無力さを感じますが、ひたすら天界の愛と光を

 

 

 

この教訓を我とわが身に置き換えて考える必要がありますね・・・

 

遠藤周作大先生作品で

 

 

今日は、私の住む関東も暖かい朝を迎えております。

 

三寒四温とはよくいったもので、寒くなったり暑くなったりして、着実に季節が生まれ変わるのですね。

 

おとといの晩は、目の前で水がシャーベット状になっていく様を見たかと思うと、昨晩は暑くて汗ばみ、コートを脱ぎ捨てたくなりました。

 

外のネコちゃん達もたまったものではなく、くしゃみをしている子達も結構います。

 

すかさず持ち歩いている抗生剤を与え、天界のヒーリングをするとたいてい一日で治まります。

 

しかし、もう可哀そうな野良ネコと呼ばれる子達がいなくなりますように・・・

 

昨日捕獲した雄の子は手術済みで、きれいな毛並みであったので、どうも外飼いの飼いネコっぽいということで、もとの場所に離すことになりました。

 

その方の庭で捕まえた方は、捕獲器に入っている子を見て、だましたようで悪かった、と相当罪悪感を持ってしまって傷ついているようです。

 

繊細な方ですが立ち直って頂きたいものです。

 

 

そしてここ数日、6年ぶりに「遠藤周作大先生」の著作を拝読させて頂いております。

 

寝ながら読んでいて、気付いたことに、昔より文字が見えない!字がだぶって2重に見える・・・哀しい・・・失われた6年間は長かった・・・と撃沈

 

 

しかし、相変わらず思うのが、遠藤大先生の文章力は、さすが!とプロの方にいうのも僭越至極ですが、流麗な文章でぐいぐいと読むものをひきつけて止みません。

 

本当の頭の良い人というのは、文章が分かり易いとあらためて思いました。

 

現代作家さんの文章は、内容よりも、格好良い、センスにこだわっていて、複雑に内容が交錯し、それが、自己陶酔と自己顕示欲のナルシストちゃんのかたまりのように思えてしまい、読んでいるとこちらがむず痒くなるように感じます。

 

政治家の方もそうで、やたら難しい言葉をつかって、人をけむに巻きたがり、見下して偉そうにします。

 

ネコ活動を一緒に、と思っていたネコ爺さんもそんな感じで、やたらめったらと難しい言葉を使い、

 

「どうだ!すごいだろう!こんなことまで知っているんだぞ!馬鹿なお前ら知らないだろ!さあ!オレに従え!屈しろ!」

 

と、組み伏せようとしてきたために、

 

一言

 

さいなら~

 

でした。

 

 

やっぱり、昔の文豪と呼ばれていた大先生作家さん達は、ご自分が東大卒であっても、大衆に向けて、書いているため、小学校した出ていない人に対してでも、分かり易く、語り掛け包み込むような温かい文章なのだな、と思えます。

 

 

遠藤大先生の作品で、今回あらためて思ったのが、作品の中の主人公や登場人物には、感情移入したり、応援したりできような人がまったく出てこない、ということです。

 

出てくる人達、皆、こんなのが近くにいたら、面倒だな、嫌な奴、遠ざけたい、と思わせるような性格の人ばかりです。

 

よくある、なんでもできるスーパーヒーロー、ヒロイン、または同情して助けたくなるような人は一切出てこないのです。

 

皆、どちらかというと、社会の中では鼻つまみ者、コンプレックスの塊人間、弱く、生き辛そうなでも、ずるい人物ばかりが出て参ります。

 

これは大先生の意図しているとことだと思えます。

 

この地上では、皆が皆、どこかおかしく変で、弱く、強いものに打たれながらでも、地上でへばりつ生きながらでも生きている

 

これぞまさしく、キリストの愛を表したかったのかな、と思えます。

 

どんなに情けなくダメで弱い人間でも、キリストは見捨てない、包み込み最後は愛し、許してくださる、

 

と、究極はそうおっしゃりたかったのかな、と2重に見える目で文字を追いながら、時々、読めない漢字を勝手に想像して読み飛ばし、ぼんやりと分かった気がします・・・

 

こんなイメージかも 遠藤周作大先生ご自身がキリストのようです

 

 

 

 

 

 

聖ヴァレンタインの日に妄想・・・

昨日は、聖ヴァレンタインの日でした。

 

ネコのお世話の合間に、自分のことをせねば、と昨日は新宿の歯医者さんで歯のメンテナンスに行って参りました。

 

結果は、パーフェクトと言われました。

 

良かった良かった。これも聖ヴァレンタインの日のギフトです。

 

感謝。

 

(ネコのお世話に関しましては、あのなめくじ男(すみません・・・)が2度目の吐血で緊急入院をしてしまった為に、お宅の残されたネコちゃん6匹のお世話が増えてしまいました。現在、総数「66匹」のネコちゃんのお世話に夕方5時から10時まで掛かってしまいます。先日、お店のレシートで合計666円と刻印があり、これがサインだった気がします。悪魔の数字?しかし、ネコさま方をお世話をさせて頂き、心の底から有難い、と思うようにしております。すべてに感謝。しかし、昨夜は手先がちぎれるほどの過酷な冷気でした。また目の前で水が凍る現象を見せて頂いております。こんなことを続けている私を全否定し、酷く批判し、罵詈雑言を浴びせ続けていた張本人が倒れた結果、私しか頼る人間がいないということは情けない次第です。酒を止められなかった気の弱さと、解離性の精神疾患、そして憑依現象もあって仕方がないかも知れませんが、自業自得でしょう。もう一人、まるでその男のツインソウルのようにそっくりの性質の人(なめくじと蚊の妖怪かも)が、まったく同じように私を非難し続けています。その人もずっと体調不良を訴え続けています。なぜその原因に気付かないのでしょう?こちらに負の念を送っているものが私に当たると、100倍くらい倍増して跳ね返っていくからです。私を見下し、馬鹿にし続けるとろくなことにならない、と気付いて頂きたいものです。私には天界から注がれている光のカーテンがあります。また現在、66匹のネコちゃん達が守ってくださっています。ですから、どんなに私を傷つけようとしても無理なのです。反対に傷つけようとするご本人が酷い目に遭うのです。今回のその男の状態がそれを明確に物語っています。私と私にかかわる人たちに対して負の念を送り続けている人、ただちに止めた方が良いと警告させて頂きます)

 

 

とまあ、ネコちゃん関連のことは有難く受け止めさせて頂いております。

 

 

昨日は、また遠藤周作大先生から、さりげないアプローチを頂いた気が致しました。

 

私の人生の中で、偶然、出会った作家様は遠藤周作大先生のみです。あとは、何気なく歩いていたところに偶然、手塚治大先生のご葬儀に出くわさせて頂いたということもありました。しかし、生きている生の有名作家様をお近くで拝見できたのは、遠藤先生だけでした。

 

その当時は高校生で、なにも考えていない怠惰な人間でした。本を読むことだけが趣味でしたが、当時は遠藤先生のご本は、キリスト教系で高貴という印象があり、敷居が高く感じられ、まだお近づきになれない気がしておりました。

 

遠藤先生の印象は、あのダバダ~ダバダ~という不思議な歌詞のCMの違いが分かる男、竹中直人さんが物まねしてる人、そのものでした。お客様方から大注目されながら、静止画像のように動きがなく、始終下を向き、ぶつぶつと小さい声で何かおっしゃっていらっしゃいましたが、まったく何をおっしゃっているのか分からなく、つまらなかった為に、即効そこをあとにいたしました。

 

のちに読んだエッセーでも、人前でしゃべるのが苦手、とありましたが、その通りの感じでした。

 

その遠藤先生が突如、畏れ多くも、私にアプローチをしてこられた気がしたのです。

 

最初はまだ田園調布時代でした。

 

実家に帰る道中、一時間に数本しかない電車が行ってしまったばかりで、駅の本屋さんで時間をつぶそうをしていたところ、ふっと目の前の本に吸い寄せられるように近づき、ぱっと手に取って、購入してしまった一冊の本が、生まれて初めて購入した遠藤先生の「キリストの生涯」でした。

 

その本は実は、数ページしか進まず、しまっておいたのですが、昨日、ふと手に取って電車の中に持ってきた本がその本でした。

 

カバーがしてあり、気付かずにいたのでした。

 

「キリストの生涯」はあまり読んでおらずにいましたが、その後、また実家に帰った時に、日曜日版の新聞をぱっと開くと、2面に渡り、遠藤先生の「沈黙」という作品が紹介され、その記事に「隠れキリシタン」についての特集が組まれていました。

 

その年は、隠れキリシタンが解禁になってから記念の年であったと記憶しております。

 

その特集では、なにか魂に衝撃を受け、それからというもの、執念深く、しつこく、図書館に通い隠れキリシタン関連の書物を読みあさり、その後、長崎にまで秘密を解きに数回、通ったのでした。

 

その当時は、遠藤周作大先生に、先生すら謎であった「隠れキリシタンの謎」を解くように、畏れ多くも頼まれた気がしておりました。

 

大先生も数多くの著作で、キリスト教隠れキリシタンを取り扱っていらっしゃいますが、やはりどこかに、割り切れない、疑問が残っている感じがしておりました。

 

疑問のひとつ、

 

「わが身や家族を投げうってまで、なぜに信仰を守れたのか?」

 

大先生ご自身も、硫黄の煙がもくもくと漂う、雲仙普賢岳に登られた時に、

 

「信仰を守る為に、この熱湯に入るのは嫌だな」

 

とコメントを残されています。

 

私も、長崎の生徒さまとご一緒した雲仙普賢岳の頂上で立ち入り禁止になっている、ブクブクと緑色の泡を吹いているマグマのようなものを見た時、同感!しました。

 

踏板を踏まず、獄門に処せられるのを良しとするのも、疑問でした。

 

長崎の教会で見た、数えきれない人の足の汚れで朽ち果てているような木片に

「イエス様の魂が宿っているから」

と踏めずに、家族とわが命を差し出す、なんてあり得ません。

 

私だったら、靴を履いて、土足で「ふざけるな!」と言って思いっ切り踏みつぶしてやります。

 

聖母マリア様像をお守りする為に、仏像の中に隠した変形した不気味なマリア像を後生大事にする気持ちも測り知れません。

 

その時、現地に行ってよくわかったことに、外国からやってくる宣教師たちは、ほとんどが偽物であった、ということです。

 

以前、歴史の物語の中で、江戸時代、徳川家康や、その後、家光らが、キリスト教を禁止して弾圧し、宣教師たちに獄門を与えていたという事実を知った時は、家康公は尊敬するけれども、その残酷な非道さはちょっと・・・と思っておりましたが、現地で謎が解けた気がします。

 

その宣教師の姿をして、日本の漁港からしのび入ってきて、村々の人々をだましていたのは、宣教師でもなんでもなく、日本の貴重な鉱物を目当てにしてやってきた「山師」みたいなものばかりであった、のではないか、ということです。

 

徳川政権は自国の民を守る為に防衛をしたのだと推測できます。

 

アメリカのゴールドラッシュの時、いろんな国から、野心にあふれる人たちがアメリカに押し寄せたのと一緒だと思えました。

 

日本は黄金の国、ジパングだという噂が世界中に広がり、日本人はまだ野蛮だからだましやすいとたかをくくってやってきた人たちが多かった気がします。

 

遠藤先生の「沈黙」の舞台にもなり、先生の記念館のある長崎の外海(そとめ)地区が、奇遇にも、長崎の生徒さまのご実家がある場所でした。

 

生徒さまのお知り合いの方が、記念館の中にお勤めでした。

 

その時にふと思ったのが、大胆な発想ではありますが、外国から来たえせ宣教師たちは、石炭やウランなどの鉱物を掘らせて、他国に密売する為に、日本人を薬物中毒にしていたのではないか、ということなのです。

 

もしかしたら、それはアヘンかな、と思えました。

 

アヘン戦争もあったくらいですから、依存性の高いものを餌にして、取引をしていたのはないか、と思えたのです。

 

まがい物の宗教をつくり、アヘンを吸わせて恍惚とした中で、不思議な儀式をし、忠誠を誓わせていたのかも、と思えました。

 

他の憶測の薬物中毒とまたもうひとつ感じたのが、聖母マリアさまを讃えるという

オラショ」と呼ばれる祈祷文を唱えているテープを聞いた時に、これは悪魔の儀式の歌では、とぞっと身震いがしたのでした。

 

まがりなりにも自分も生まれながらクリスチャンであり、多くの祈祷文を聞いて参りましたが、どうしてもオラショを祈祷文とは思えませんでした。

 

更に、隠れキリシタンの用いていた黒い金属片の数珠など、祈祷の品々が、すべて黒魔術に用いるようなものばかりであったことも、そう思えた要因でした。

 

しかし、生徒さまのご親族は、エセ神父かも知れませんが、外国から来た宣教師さんに、石炭の炭鉱を切り開いてもらったり、小麦の栽培法を教えてもらい製麺の機械を作ってもらってうどんの作り方を伝授され、それを代々受け継いでそれを生業としていらっしゃるそうです。

 

生徒さま一族さまは、その宣教師さんを神さまのように崇め奉っていらっしゃいました。

 

つまり、双方にメリットがある取引がされていたのでは、と思えます。

 

すべて勝手な憶測ですが、長崎の島々の下には鉱物が豊富に堆積しているのではないかと思うのです。

 

その中に、後の原発の要素となるウランも含まれているのではないかということです。

 

世界遺産になって守られるようになったのも、極秘事項であるから、と疑いを持ってしまいます。

 

江戸末期あたりから、長崎の重工業の会社とも水面下で取引をして、重金属をクリスチャンでもあった従業員に掘り起こさせ、外国に密輸していた、それが、秘密を守る為に、掘り起こされたウランで原発を落とされ抹消された・・・

 

なんて皮肉なことでしょう。

 

すべて推測の域ですが、なんだか、遠藤先生に疑問を紐解くように言われている気がしてなりません。

 

 

昨日、持ってきていた本が、サインかも、と思い、帰りは新宿の紀伊国屋書店で、遠藤大先生の書でまだ未読であった「深い河」を買って参りました。

 

今年は奇しくも大先生、生誕100年の年であるようです。TVでも特集が組まれていますね。

 

その新宿の紀伊国屋書店は、私にとっていつも何かが変わる節目節目で、立ち寄り、買う本が、何かしら人生に影響してくるのです。いわば、パワースポットのような場所です。

 

紀伊国屋書店には「芥川賞作品」「直木賞」作品がずらりと並んでいましたが、あまりにも作品が多く知らない作家さんばかりです。なんだか多すぎて素晴らしい賞が安売りたたき売りをされている感が否めません。現代小説は、修羅の生々しい生活が現れているようで、ギスギスとしていて読むと疲れてしまいます。

 

昔の作家さんの著作の方が、過ぎ去りし日々の遠い過去のセピア色のものに包まれた懐かしい出来事として安心して読めます。

 

「深い河」は、インドが舞台と知っていたために、以前はまだハードルが高いと思っておりました。

 

インドは私もたぶん、過去世でいたのではないか、と思えるのですが、今世で行こうとしても、どうしても行きつくことができない国です。

 

ひと昔前、人生につまづいた時、マザーテレサのおつくりになった「死を待つ人々の家」のご奉仕隊に加わろうとして、申し込んだことがあります。

 

前にも書いたかも知れませんが、電話をして、担当のシスターにつながり、お話をさせて頂いたところ、私の声を聞き、

 

「あなたはまだお若いのでしょう?人生をやり直した方が良いですよ。ここは、人生をすべて投げうってからくる人の場所です。あなたが来るところではありません」

 

と諭され、断念したのでした。後々、その時、断って頂き、本当に良かったとそのシスターには心から感謝したものでした。どう考えても当時、甘い考えで未熟であった私が、その人間の究極の場所に行ったら、理不尽と矛盾と、悲惨極まる現状を目の当たりにし、衝撃でもっと落ち込んで再起不能になって帰ってきたと想像できます。

 

その後は自分の未熟さを恥じ、インドには今世では行かないことにしております。

 

わが命と我が家族を犠牲にしてまで、信仰を守れるのか?

 

いいえ

 

私にはできません。

 

しません。

 

宗教よりも動物さんの方が尊いです。

 

 

 

しかし、遠藤周作大先生、今後ともこんなわたしめをどうぞよろしくご指導のほどを

お願い致します。