jupes jupesの日記

Lanai Fukudaのくだらない日々

兄のこと


今日は父の日です。

梅雨の日の涙雨。

今日は6月15日に末期がんで闘病していた兄が天界の光の源に帰った為に、地元で葬儀が行われております。

私と弟は諸事情の為に出席せずに家で静かに弔っております。

今日は私事ではありますが、兄の弔いそして魂の浄化の為に、いろいろと思い出し、つらつらと書かせて頂きたく思います。

ことの始まりは、昨年の暮れに実家の大掃除に帰っていた時でした。

早朝、夢の中で母が私に近づいて来て「○○○(兄の名前)が癌だって…」と顔面蒼白で震える声で告げたのでした。そこではっと目が覚めたのです。その夢とも現実とも区別がつかないような母の告白が、とても気になり、思わず近くにいた母に「もしかしたら、もうすぐ誰かが死ぬかも知れないから覚悟をしといたほうが良い」と言ってしまったのです。母は笑いながら「そんなの全然驚かないよ。お母さんは毎週誰かのお葬式に行っているんだから」と冗談を言わないでというように笑い飛ばされてしまいました。

その数日後に、滅多に電話をして来ない母から電話があり、兄が癌になってしまい入院することが決まったと教えられたのでした。兄は勤めていた病院の病院長になることが決まったと困惑しながらも喜んでいた矢先であったそうです。

死ぬよりも闘病生活は数倍辛いものです。あっという間に死んでしまう方がずっと楽だと思います。

その日から我が家の苦悩の日々が始まったのです。兄は母にとって世界で一番愛する存在であったはずです。家族の中で父は山伏みたいな人間であったし、弟はいまだに宇宙人で私は訳の分からない変人である中で、唯一兄だけがまともな人間らしい人間でした。兄は母と同じ星から来た似たような性質であり、一番安心してなんでも話せる良き理解者であり、頼りになる長男でありました。その兄が突然、病に伏したという知らせは母を断崖絶壁から深海に突き落としたような衝撃であったに違いありません。

兄と私と弟は、長期に渡って断絶状態にあり、近しい関係ではありませんでしたが、まだ若い兄がそのような目に遭っているというのは、とても心が痛むことでありました。

我々三兄弟は最初から仲が悪かったということはなく、向こうからそのように強いられた結果、現状に至ったのみなのです。

幼少期はまるで団子三兄弟のようにいつもぴったりと一緒で陽気で騒がしい仲の良い三兄弟でありました。

兄は幼少期、身体が弱く小児喘息もあり、泣き虫で甘えん坊でした。不器用でボタンがある服すら着ることもできなかったので、1歳3か月後に生まれた私が全部面倒をみておりました。私にとって兄はまるで手のかかる可愛い弟のようなもので、朝から晩まで身の回りの世話をしていたのでした。夜中でもしょっちゅう喘息の為に吸引器を使って苦しんでいる兄が気の毒でもあり、守ってあげようと幼心に思っておりました。弟が生まれてからは私は弟の面倒も見なくてはならず、自分がまだ幼いということを忘れて必死に2人の面倒をみておりました。私だけが兄弟の中で一番屈強で忍耐強く泣くこともしなかったので、両親は安心して兄と弟を私に任せておりました。今、考えると結構自分でも無理をしていた気が致します。しかし、後進国の子ども達が幼い時から働かせられるのを当たりまえと捉え、小さな手で作業させられているようなものだったと思います。NHKのドラマの「おしん」を見た時に、小さなおしんが背中に大きな赤ん坊を背負い、子守をしながら家の仕事をしている姿と自分がぴったりと重なってしまいました。

小学校に上がっても兄は病弱で欠席が多く、勉強についていけないと嘆いているのが気の毒で2学年下の私が兄の教科書を見ながら勉強や宿題を手伝ってやっておりました。2学年上なので、結構適当ではありましたが、それでも兄は有難がって「お前は天才だ!将来は東大に行けるよ」といつも見え透いたお世辞を言って私にやらせていたのです。兄が高校を卒業するまでは兄も弟を可愛がり、私に甘えそして、お礼にバイクに弟や私を乗せてごまをすりながらもなんとかかろうじて高校を卒業すると病院の看護師になるべく家を出たのでした。

しばらくはよく実家に帰って来ては皆に上手に甘えていた兄でしたが、同じ病院の看護師の方と付き合い始めてから徐々に性格が変化していったのでした。

その頃、私は人生に行き詰っており、しばらく家で本を読んだり大掃除をしたりし、引きこもっていたことがありました。今でいうニートのような状態を見かねた兄は私への立場を逆転し始めました。急に態度をひるがえし優位に立つようになり私に対して説教をし出したのです。その時の文言をよく覚えております。

「お前そんな風に誰とも付き合わないで一人でいたら死んだ時に誰もお葬式に来てくれないぞ」と脅すのでした。まだ20歳にも満たない兄と私の会話とは思えないものでその時はピンときませんでした。

私は今まで誰のおかげで学校を卒業できたと思っているのだ、と密かに反論をしたく思っておりましたが、強くなり始めた兄を見て少々、もう世話を焼かなくても良くなったと安堵もしておりました。

そして看護師の方と結婚をするとますます兄は私達に対して強気で尊大で実家の家族を下に見るような態度を取るようになっていったのです。

本当に結婚する相手次第でこれほどまで人格が変わるとは、と兄たちからリアルに教えられたような気が致します。

兄嫁に関しましては、とても真面目で賢い良い妻であり、母親だと思います。しかし、私のことはゴキ○○か毛虫のように毛嫌いをしていらっしゃるのは変えられない事実です。

最初に兄からその方を紹介された時、私はまだ学生でした。その頃の私は消極で暗かった自分を変えようと努めており、誰に対しても社交的でいようと頑張っていた為、兄の彼女ということで、「はじめまして!」と明るくにこやかに挨拶をしようと思い近寄って行くと、私の発した言葉の「は・・・」のところからその方は顔を引きつらせて一言も発せずに45度横を向いてしまいました。その続きの「・・・じめまして」の言葉が空中をさ迷い、私は空中に独り言を放った羞恥心にさいなまれました。

このように初対面から嫌悪される経験はこれまでも何度か味わってきたので慣れてはおりましたが、家族となるであろう人からも嫌悪丸出しの態度に出られ、寂しい思いを感じておりました。

その態度はまるで家の中でゴキ○○さんに出くわした時の表情です。私は昔から、ゴキ○○さんの気持ちが良く分かります。「何か悪いことをしました?ただそこにいただけなのに…」という気持ちです。

そのような拒絶されてしまったら、もう何もこちらから無理にお付き合いを強いることはできません。兄嫁とはこれまで一度も言葉を交わしたことがありません。ただ、母を通じて姪たちや甥が生まれた時のお祝いを送り、学校の入学祝や学費を送り続けるのみでした。それらの贈り物に関しては兄や兄嫁たちから一切の感謝の言葉もありませんでした。一度だけ学費を送った後に姪から社交辞令に満ちた冷たく感情のないお礼状が届いたのみです。甥に関してはまるで無視でした。
そんな時、母は、すべて私の態度ややり方が悪いからそうなったのだと兄の家族を擁護し丸く収めようとするのでした。

私はそれでも別に良いと今でも諦めております。

父が亡くなる時、兄は一生懸命、父を見に来てくれたし、心優しい部分も多分に残っていたのです。しかし、弟がますます難しくなってくると、兄は実家に寄り着かなくなっておりました。

兄の三人の子ども達は皆優秀で良い子達で、母にとっては自慢の孫たちであり、心のよりどころであったでしょうけれども、あまり家には来てくれず、母も寂しい思いをしていたようです。

兄は兄嫁の教育によって、低学歴にもかかわらず、どんどん出世していき、高い家も購入し、車も何台も買い替え、子ども達も皆良い学校に入れて、遂には病院長になるという大出世を遂げたのです。

その大出世の命を受けた直後に、どうも体調が悪いと検査を受けてみると「すでに手遅れの末期がん」であるという診断をくだされたのでした。

兄は自らのキャパシティを超えた無理をし続けた人生であったかも知れません。まるで鬼嫁「はな」にはっぱをかけられて大出世をして若死にをした井伊直政のようです。お気の毒に・・・。

今年の初めに兄の入院していた病院に母と弟と私の三人で、兄嫁たちがいない間にお見舞いに行きました。

兄はちょっとむくれた顔をして面倒くさそうに我々を迎えました。弟は情の深いところがあり、たくさんお土産を持っていき、兄の小さかった頃のアルバムまで持って行って慰めようとしておりましたが、兄はそれらをすべて拒否して弟に突き返したのでした。

私はすかさず兄にマッサージをしてあげると言って、むくんだ足をさすり、天界のヒーリングをすることに少しだけ成功致しました。

すると兄は「良いからやめてくれ」と言いながらも気持ち良さそうにして少しの時間だけヒーリングを受け留めてくれたのです。

するとその後、食欲が戻り、とても良い状態になったということで、自宅に戻ることになったのでした。

その後は兄の家族達が総出で看病をしていたようで、甥などは仕事を辞めてまで、24時間付き添っていたとのことで、それは本当に有難く思いました。反面、病院であったら実家の家族も看病を手伝えるのに、家に入ってしまうと、兄をまるで檻に入れて隔離してしまったごとく、こちらの手の届かないところに行ってしまったのでした。

私は奇跡が起きることを信じて日々ひたすら天界の遠隔ヒーリングを兄と兄の家族達に送り続けるのみでした。

そして今月になって、兄は緩和ケア、いわゆるホスピスに入ることが決まりました。そこに入ったらもう2度と家には戻れないということでしたが、私は兄に天界のヒーリングをさせてもらう機会が出来たことを有り難く思いました。

これからできたら一週間に一度はお見舞いに行こうと思っていたのですが、先日の6月12日に異様に胸騒ぎがし、遅くになったのですが、夜、田舎の遠い病院までタクシーを使い駆け付け、兄のもとに行ったのでした。病室には、甥がひとり兄を見守っておりました。甥は父の葬式以来ずっと会っていなかった私を認識できず、また突然やってきたことに驚きと嫌悪感を示しました。甥はきっと兄嫁から私の悪口を聞き続けており、そのような態度に出たのだと思えます。私は甥に15分間だけ話をさせて欲しいと頼み、席を外してもらったのでした。

兄の顔は土気色をし、骸骨のようにやせ細り、髪の毛は半分白くなっておりました。腹部だけは腹水がたまっていて、まるで布袋様のお腹のように膨らんでおり、足も象の足のようにむくんでおりました。

私は持ってきたラファエルストーンとエンジェルオイルを使い生まれて初めて少しの間ですが兄に天界のヒーリングを施すことができたのでした。

兄はとても素直にそのヒーリングを受け入れてくれました。その顔は、10年前にやはり癌で闘病していた父に私が最初で最後の天界のヒーリングを施した時の表情にそっくりで、穏やかで平和なまるで仏陀を思わせるような顔であったのです。以前の険しいものは微塵も消えてなくなっており、天界のヒーリング中はとても気持ち良さそうにしておりました。

そこにもう15分経っただろう、と甥が怒った顔で入ってきて、天界のヒーリングは中断されてしまいました。

しかし、私も兄も十分であると納得したような気が致しておりました。

10年前、西宮にいた頃、父の危篤と聞き、和歌山への出張から深夜バスを使い私が実家に駆けつけて、ようやく出来上がったばかりの天界のヒーリングを施した後、24時間もしないうちに、父が天界へ帰ったという経緯があり、私が見舞いに行くと兄は必ずすぐに死ぬだろうと、母は私が見舞いに行くことを怖がっておりました。

そんなこともあり、私はこの真夜中の訪問を誰にも言っておりませんでした。

そしてその数日後、兄は危篤状態に陥り、苦しみもだえた末、医師から「この痛み止めの注射を打つともう2度と目が覚めないけれどもどうしますか?」と兄嫁に訊ねたところ、まだこれで終わるのは忍びない、ということで、痛みにもだえ苦しむ兄を皆で見守ることにしたそうです。母はその姿を見ておれずに帰ってきたそうでした。

私はあとでそれを聞き、最後まで兄を苦しめた兄嫁たちを少々恨めしくは思いましたが、母の「それは家族愛」という言葉を信じて受け留めることにいたしました。

そして15日の午前3時ごろに、肉体の地獄の苦しみから解放された兄の魂は、無事に肉体から抜け出し、天使達に連れられて天界の光の源に戻ることができたのでした。

しかし、しばらくすると兄の魂は地上に戻ってきて、亡きがらの側にしばらくとどまることを決めたようです。まだすぐに天界の完全に行ってしまうのは自ら避けたようです。なにかやり残したことがあるのでしょう。

私は以前から決まっていた、外国からこの時期にだけしかこれない方の講座を断ることはできずにおり、最期の看取りも出来ず、そして葬式の出席も出来ずにおりました。

昨日の数時間だけは空けることができたので、母と私と弟で氷漬けになって穏やかな仏陀のような顔をしている兄に面会に行き、家族4人だけで最後のお別れ会を致しました。弟はいつもながらのことですが、涙と感情の噴出によって挙動不審になっておりました。

私と弟が親戚嫌いであり、また私達を忌み嫌う兄嫁たちと会わずにすむように兄が守ってくれた為に、今日の葬儀になったのではないかと思えます。


今日は偶然にも兄と同い年の方のセッションがあり、兄に天界のヒーリングを施して癒すような気持でセッションをしておりました。

今日は仏滅。仏が滅びる日。なんでしょう?

人気者で皆に可愛がられており、社交的であった兄の葬儀には、ものすごいほどの数の参列者が訪れる予定であるとのことです。

また若き日の兄の文言を思い出しておりました。

「お前、人付き合いをしていないと葬式の日に誰も来てくれないぞ」

たくさんの人たちがきてくれて良かったね。あっちゃん。